ヘブライ人への手紙 46
「イエスを仰ぎ見るべし」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ヘブライ人への手紙12章1-3節
旧約聖書 コヘレトの言葉4章4節
虚栄心

 人間が才知を尽くして労苦するのは、仲間に対して競争心を燃やしているからだということも分かった。これまた空しく、風を追うようなことだ。

 『コヘレトの言葉』4章4節に記されている御言葉です。人間の為すことは、いかに知恵に満ち、力に満ち、素晴らしい努力がそこに見られようとも、心の深いところを覗いてみれば、お互いに妬みあってしていることであると語られています。世のため、人のため、会社のため、家族のためと言ってはいても、そのために自分はどうなってもいいと思っているのか。自分が正当に評価されなくては、やっぱり面白くないというのが本音ではないか。コヘレトは、そのような人間の奥底に横たわっているものに目を向け、人間が才知を尽くして労苦するのは、他の人に負けたくない、馬鹿にされたくない、さすがだと認められたい、そういう競争心や妬みや虚栄のゆえであると断じるのです。

 こういう心の本音は、物事がうまくいっている時は、あまり意識しないことかもしれません。しかし、コヘレトが言いますように、競争心、妬み、虚栄の業は《空しく、風を追うようなこと》であり、必ずどこかで行き詰まり、積み上げてきたものが崩壊したりするものです。その時になって、ようやく自分の心を見つめるようになるのです。今まで何のために苦労してきたのか? 空しさにかられ、自分のしてきたことや、心の奥底を見つめていきますと、実は世のためであるとか、誰かのためであるとか、体の良く言い繕ってきたけれど、結局は自分のため、自分の虚栄心を満たすためではなかったかと、思い当たってくるのです。

 私も同じです。牧師などという畏れ多い仕事をしておりますが、心の中を覗いてみれば恥ずかしいことがいっぱい見えてきます。本当にこの資格があるのかと思うほどに貧しい心を持っています。神様のため、教会のため、信徒のためであると、自分でも思い込んできました。競争心、妬み、虚栄心、そんなものはないと思っていました。しかし、起こり来る恐れや不安、苛立ち、焦り、失望、そのような自分の思い悩みの原因というものを突き詰めてみますと、やはりそういうものが横たわっていたことに気づかされるのです。

 このように私たちの生き方、感じ方を突き動かしているものを、ドライバーと表現することがあります。車を運転する人をドライバーと言ったり、ネジを打ったり、ゴルフボールを打ったりするものを、ドライバーということがあります。そのように私たちの人生を導いたり、コントロールしたり、突き動かする動機、価値観、感情、信念を、ドライバーというのです。
私たちのドライバー
 聖書は、そのような私たちの人生のドライバーについて明確に指示をしています。

何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。(『フィリピの信徒への手紙』2章3-5節)

 何事も利己心や虚栄心でしてはならない、と言われています。自分を人よりもよく見せようとか、馬鹿にされないようにしようということではなく、むしろ遜って、相手を自分よりも優れた者だと思いなさいというのです。そして、大事なことは、《それはイエス・キリストにも見られるものです》とありますように、イエス様の歩まれた道に倣うということ、これを私たちの生き方の目標にするということなのです。

 もうひとつ『ガラテヤの信徒への手紙』5章16節からのみ言葉を読んでみましょう。

わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。(16-17節)

 ここには、私たちのドライバーになろうとしている肉と霊の対立ということが書かれています。肉の求めに従うのか、霊の求めに従うのか、それによって結果も違ってきます。私たちは、愛や喜びや平和を求めている。けれども、実際には肉の求めに突き動かされて生きているので、最後には敵意、争い、そねみを生み出すことになってしまうのです。《あなたがたは、自分のしたいと思うことができない》とは、そういうことでありましょう。もう少し読んでみたいと思います。

肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。(19-26節)

 《イエス・キリストのものになった人たち》といわれています。御霊の導きに従うとは、御霊によって、イエス様の思い、教え、導きに捕らえられることです。そして、それは肉の欲情、欲望をかなぐり棄てることを意味します。それなしに、イエス様のものとなることはできないのです。
定められた競走
 今日お読みしました『ヘブライ人への手紙』にも、同じ事が言われているのです。

こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、(12章1節)

 人生が《競走》に喩えられています。「争う」という字ではなく「走る」という字の競走です。人生とは他人との争い合うことでもなければ、その勝ち負けが問題なのではありません。《自分に定められている競走》を走り抜くこと、つまり自分との戦いなのです。

 戦いの話をするまえに、《自分に定められている》ということについて少し申し上げておきたいと思います。《定められている》とは、自分ではどうすることもできないということです。人生は自分で切り開くものであると言われることがありますが、必ずしもそうではありません。自分ではどうすることもできないものが、人生にはたくさんあります。ひとりひとりの個性もそうでしょうし、生まれてきた時代や国ということも、人生に大きな影響を与えます。それは、神様がわたしたちひとりひとりに与えてくださっているものなのです。キリスト教では、それを摂理といいます。それは、馴染みの深い「宿命」とか「運命」と言い換えても同じです。

 「宿命」は、命に宿るものですから、身体的能力とか、生まれてきた家であるとか、否応なしにはじめから自分の人生についているものであって、一生涯背負っていくものです。「運命」は、私たちの命を運ぶものです。人生には自分が何かをしたというのではなくても、私たちの人生を大きく転換させ、方向付けるような出来事が起こります。人との出逢いもそうでしょう。事故や病気もあるかもしれません。時代の波が押し寄せてくることもありましょう。私たちは、人生の中に自分の努力ではどうにもならないことがたくさんありますし、そういうものが私たちの人生を否応なしに定めていることがあるのです。

 問題は、その受け止め方です。聖書は、私たちひとりひとりの人生に対して、神様のご計画があり、目的があることを教えています。そして、それはたとえ困難なものでありましても、必ず神様の愛と善意が隠されているものであると約束してくれているのです。

 たとえば、私がこのことを思うとき、しばしば思い起こすのは『ヨハネによる福音書』9章に記されている生まれつき目の見えない盲人の話です。不自由な目をもって生まれてきたその人は、道端で物乞いをしていました。それを見て弟子たちがイエス様に「あの男が生まれつき目が見えないのは誰の罪によるものですか。本人の罪ですか、両親の罪ですか」と聞きます。するとイエス様は「誰の罪でもない。神の栄光が現されるためである」とお答えになりました。悪いことがあると、すぐ何のせいかと原因を考えてしまう。しかし、イエス様は原因ではなく、「神の栄光が現れるため」と、その人の人生に与えられた目的をお示しになります。

 私たちの人生もそうです。なぜわたしがこのような目に遭うのか、そんなに悪いことをしたのか、他にもっと悪いことをしている人がいるのに、なぜ私なのか、そんな風にかんがえて落ち込んでしまうことがあります。しかし、人生はそういうものではありません。すぐには分からないことがたくさんあります。けれども、私たちの人生には、神様が備えておられるものがたくさんあるのです。これから読むところでありますけれども、『ヘブライ人への手紙』12章7節にはこう記されています。

あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。

 試練はあります。それを天の父なる神様の御心として受け取り、神様の目的が果たされることを求めて生きなさいと言われているのであります。それが、《自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか》ということなのです。
からみつく罪
 しかし、その際に私たちの足を引っぱるものがある。それが《絡みつく罪》です。先ほど、肉と霊の対立ということをお話ししました。神様に逆らう肉の思いが、神様の思いに従おうとする私たちの足をひっぱるのです。これをかなぐり棄てるのは、私たちの理性、分別、意志の力をもってしても容易ではありません。それゆえ、『ヘブライ人への手紙』はこのように言葉を継ぐのです。

信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。

 『フィリピの信徒への手紙』でも、イエス・キリストを見なさいということが言われていました。『ガラテヤの信徒への手紙』でも、イエス・キリストを離れるなということが言われていました。ここでもまた、それが繰り返されるのです。《信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら》、と。

 まず《信仰の創始者》であるイエス様を見つめる、ということを考えてみましょう。私たちの信仰が揺らぐときがあります。疑いや、迷いが起こったとき、あるいは信念に挫折をして罪を犯してしまったとき、私たちは自分が信仰者であると思えなくなってしまうのです。しかし、信仰とは、イエス様が私たちに与えてくださったものです。まだ私たちが神様のことを何も知らないで、愚かで、罪深い歩みの中にあるときに、イエス様の方から私たちに近づき、私たちに出逢い、私たちを招いてくださったのです。問題は私たちが信じるか、信じないかではありません。イエス様が、私たちを招いてくださったという事実です。

 そして、イエス様は私たちの信仰の《完成者》、すなわち成就者でもあると言われています。私たちが、イエス様についていくことができるかどうか、それすらも関係がありません。私たちが疑いを持とうが、迷いのなかを彷徨おうが、イエス様が私達を支え、導き、私たちの信仰を全うさせてくださるというのです。

 それならば、私たちは何もしなくてもいいことになります。確かに、その通りなのです。しかし、勘違いをしてはいけません。私たちは、人生という定められた競走の中を生きているのです。それから逃れられるわけではありません。《もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。》とイエス様は仰いましたが、イエス様は何としてでも私たちの人生の目的を果たさせ、神様のもとにお返しになろうとしておられます。もし、私たちがイエス様を信頼すれば、それは大きな恵みとして私たちの人生を慰め、力づけるものになりましょう。しかし、逆らい続けるならば、イエス様の御力は厳しく、辛いものとしてしか感じられなくなるのです。

 私たちに信仰を与えてくださったイエス様は、かならず私たちの信仰を全うさせてくださいます。イエス様は、私たちがイエス様を十字架につけようと、それを忍ばれたお方なのです。そして、その愚かさ、罪深さをもゆるして、私たちへの愛を貫かれたお方なのです。

このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。

 わたしたちの人生がこのようなイエス様の御手のなかにあることを、今受け入れ、全幅の信頼をもってお委ねしようではありませんか。私たちの肉なる思いではなく、イエス様の御心が私たちの人生にうちに行われることを求めようではありませんか。人生がいかなるものでありましても、それがわたしたちの人生に大きな安らぎをもたらすことになるのです。
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