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イスラエル人(アブラハムの子孫)は、400年の間、エジプトで奴隷の民として扱われてきました。しかし、神様の奇しき御業によってエジプトを脱出し、モーセに率いられて三ヶ月の旅路を歩み、シナイ山の麓に辿り着きます。このシナイ山というのは、出エジプト記3章1節に出てくるホレブ山と同じ山でして、モーセが「わたしの僕としてエジプトにいき、アブラハムの子孫を救い出せ」と神の召命を受けた場所でありました。モーセにしてみれば、「仰せのとおりイスラエルの民をあなたのもとにお連れしました」と神様にご報告をし、感謝の礼拝を献げる、そういう目的をもったキャンプであったと思われます。
シナイ山の麓におけるキャンプ生活は、約一年間続きました。この一年の間にイスラエルの民は神様の教えを学んだり、礼拝の仕方を学んだり、移動式の聖所である幕屋を造ったりして、神の民として装いを整えていくのです。そのことは出エジプト記19章から民数記10章に詳細に書かれております。その割かれている分量からも分かりますように、これはイスラエルにとってまことに大切な経験でありました。エジプトの奴隷であったイスラエルの民は、ここで神の民として生まれ変わるのです。
少し本筋から離れますけれども、大切なことですからお話しをしておきます。救いには二段階があります。第一段階の救いは、苦難からの救いです。苦難とは、自分らしく生きることを妨げている何かです。この苦難から解放されることによって、私たちは本来の自分の生き方を取り戻すことができるのです。イスラエルの民は、神様の御業によってエジプトから解放されました。奴隷から自由人になりました。それは苦難からの解放であり、イスラエルの民が自分たちの生き方を自由に決めることができるものになったこと、自分らしく生きることができる者になったということを意味するのです。
しかし、自分らしく生きるとは、勝手気ままに生きることではありません。そのような気持ちで生きているならば、勝手にならないこと、気ままにならないことが生じる度に、私たちは苦難を経験するでしょう。エジプトからは解放されても、また他のものが私たちを苦しめることになるのです。それでは本質的に何も生き方が変わっていない。苦難から救われても人生が救われたわけではないのです。私たちが本当に必要としているのは苦難から救いではなく、人生の救いです。生きるということは、当然、さまざまな苦難が伴うのですが、それにもかかわらず、私たちの人生が生き甲斐を持ち、希望に支えられたものとなることです。
新約聖書の『ルカによる福音書』17章に重い皮膚病を患った10人の人がイエス様に癒していただくというお話しがあります。そのうちのひとりが戻ってきまして、癒された身をイエス様の前に投げ出し、ひれ伏して、感謝をしたというのです。この人は、病の癒しを通して与えられた人生を、救い主なる神様と共に生きようと思った。だから、イエス様のもとに戻ってきたのです。
その時、イエス様は弟子たちに「癒されたのは10人ではなかったのか。ほかの9人はどこにいるのか。この人の他に神様を崇めるために戻ってきた者はいないのか」とお嘆きになりました。そして、戻ってきた男には「あなたの信仰があなたを救った」と言われます。病の癒し、苦難からの解放が救いではありません。信仰が救いだとおっしゃったのです。人生において本当に信じ得るもの、確かなものを見いだし、それによって新しい人生を生きる者とされること、それが救いなのです。
こういう言い方もできると思います。救いには「〜からの救い」と「〜への救い」がある、と。私たちを苦しめているものから解放され、その外にでるという救いだけでは十分ではありません。外に出た私たちがどこへ向かうのか、どうのように生きるのか、それがわからなければ私たちはただ目的もなく人生の荒れ野を彷徨うだけのものになってしまうのです。
さて、エジプトを解放されたイスラエル人の話に戻ります。彼らはモーセを遣わし、自分たちを救ってくださった神様を礼拝するために、シナイ山に来たのです。モーセは、シナイ山に到着しますと、さっそく神様に祈るために山に登っていきました。すると神様は、モーセに次のようなことを語ります。19章3b〜6節
ヤコブの家にこのように語り、イスラエルの人々に告げなさい。あなたたちは見た。わたしがエジプト人にしたこと、また、あなたたちを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを。今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって、祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。
神様は、「わたしはあなたがたをエジプトから救い出したけれども、これどうしたいのか? これからもわたしの声に聞き従うのか?」と、イスラエルの民に尋ねておられるのです。そして、「もし聞き従うなら、わたしはこれからもあなたたちのわたしの宝の民として祝福しよう」と呼びかけておられるのです。モーセがこれを民に告げますと、民は一斉に答えます。8節
民は皆、一斉に答えて、「わたしたちは、主が語られたことをすべて、行います」と言った。
イスラエルの民は、今まではエジプトの奴隷であったけど、これから神様に従い、神様の民として新しく生きていきます、と答えます。「それならば」ということで、神様がイスラエルの民にお与えになったのが十戒と契約の書です。
まず、20章に十戒が記されています。その後、契約の書と言われる細かい律法が記されたものが与えられるのです。それは23章まで続いておりまして、24章に神様とイスラエルの民による契約が結ばれたことが記されています。モーセが神様から与えられた十戒と契約の書を朗読しますと、イスラエルの民が「わたしたちはこれらのものを守ります」と誓約をしたのです。
さて、あらましはそういうことなのですが、今日、お読みしたのは、十戒をお授けになるために神様がシナイ山に顕現される場面です。その時、《雷鳴と稲妻と厚い雲が山に臨み、角笛の音が鋭く鳴り響いた》とあります。また、シナイ山は煙に包まれ、山全体が激しく震え、角笛の音がますます鋭く鳴り響くと雷鳴のような神の声が響いたというのです。そして、これに対して17節、《民は皆、震えた》とあります。なぜなら、18節に《主が火の中を山の上に降られたからである》とあるのです。神様がわたしたち人間に近づき給うこと、そして神様の御前に私たち人間が立つこと、それは甚だ恐るべきことなのです。20章19節では、イスラエルの民はモーセにこう言っています。
あなたがわたしたちに語ってください。わたしたちは聞きます。神がわたしたちにお語りにならないようにしてください。そうでないと、わたしたちは死んでしまいます。
神様に近づくということ、神様の御前に立つということ、神様の声を聞くということ、それによって民に与えられるのは喜びでも、平安でもなく、死を思わせるような恐怖と不安であったのです。そして、このシナイ山の体験のなかで、イスラエルに律法が与えられました。この体験に、律法の本質が示されているのです。それは、律法が私たちに与えるのは、神への恐れであるということです。律法というのは「○○しなさい」とか、「○○してはいけない」という神様の要求ですが、それを聞く度に私たちは「できなければどうしよう・・・」「してしまったらどうしよう・・・」そういう恐れが起こるのです。そして、絶えずこの神への恐れ、罪に対する恐れによって私たちは支配されるのです。出エジプト記20章20節で、モーセは、民に答えてこう言っています。
恐れることはない。神が来られたのは、あなたたちを試すためであり、また、あなたたちの前に神を畏れる畏れをおいて、罪を犯させないようにするためである。
民は今にも自分たちが神様の亡ぼされるのではないかという恐怖を味わったのですが、モーセはその心配はない、しかし神様はあなたがたに神を恐れることを教えるためにこのようにあなたがたの前に顕現くださったのだと言っているわけです。
ですから、イスラエルの人たちは、このシナイ山で、神様を礼拝するための聖所とか、礼拝の仕方などが事細かに指示されるのですが、旧約時代の礼拝の中心は、罪をあがなう犠牲の動物を献げ、神様の怒りを宥めるということにありました。また聖所の構造も、神様の御臨在の場所とされる至聖所は誰も(祭司さえも!)入ることができない、近づくことができないものとして、近づきがたき、恐るべき神を象徴的に存在していたのでした。このように神を恐れることによって、辛うじて神様と共に生きることがゆるされた。それが旧約聖書の時代です。
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しかし、『ヘブライ人への手紙』は、今や私たちにはこのような律法ではなく、福音によって神様に近づくことができる者とされたのだと教えているのです。
あなたがたは手で触れることができるものや、燃える火、黒雲、暗闇、暴風、ラッパの音、更に、聞いた人々がこれ以上語ってもらいたくないと願ったような言葉の声に、近づいたのではありません。ヘブライ12:18-19
シナイ山で与えられた律法は、《人々がこれ以上語ってもらいたくないと願ったような言葉》であったと言われています。聞けば聞くほど、私たちがいかに死ぬべき滅ぶべき人間であるかということが明らかにされてしまうからです。しかし、私たちクリスチャンは、そのようなシナイ山にて神様と出会ったのではなく、シオンの山にて神様と出会うのだと語られているのです。22-24節
しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です。
シオンの山とは、エルサレムの神殿の立つ丘のことでありますが、詩篇9編12-13節にはこのように記されています。
シオンにいます主をほめ歌い、諸国の民に御業を告げ知らせよ。主は流された血に心を留めて、それに報いてくださる。
《シオン》とは、神様の住まいであり、《流された血》を心に留めて、そこから御救いが訪れる場所であると語られています。おそらく、『ヘブライ人への手紙』の著者は、このことが頭にあったに違いありません。そして、ここに言われている《流された血》こそは、《アベルの血よりも立派に語る注がれた血です》というのです。
《アベルの血》は、言われなき殺人によって流された血です。アベルは何も悪いことをしたわけではありません。カインの罪によって、殺されました。いってみれば、《アベルの血》は罪なき者の血です。このような血が、神様に訴えることは、罪人への恨みであり、裁きでありましょう。
しかし、それよりも立派に、つまり力強く、価高く語る血があると、ヘブライ人への手紙は言います。それが、イエス様の十字架の血です。これもまた罪なき者の血でありますが、この血が語るのは、自分の血をもって罪人の罪をあがないます、ということです。友のために命を捨てる愛を実現するために流された血です。この血に、神様が報いてくださる。それは私たちの罪のゆるし、神様と和解を意味するのです。私たちは罪を裁くシナイ山ではなく、罪のゆるしがあるシオン山にて神様の声を聞くのです。律法ではなく、福音を聞くのです。
この福音によって、私たちは《生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊》に近づくことができるのです。神に近づこう。これはヘブライ人への手紙が、繰り返し、私たちに語りかけていることです。神に近づく、これが本書のテーマです。
だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。(4:16)
律法が何一つ完全なものにしなかったからです――しかし、他方では、もっと優れた希望がもたらされました。わたしたちは、この希望によって神に近づくのです。(7: 19)
それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。(7: 25)
心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。(10: 22)
今日、ヘブライ人への手紙が私たちに語りかけていることは、わたしたちが近づくべきは「シナイではなくシオンである」ということです。私たちに恐怖と死を生じさせるモーセの律法ではなく、恵みと救いを与えるイエス・キリストの福音を私たちは聞き、それによって神様に近づくのです。
ところで、もう一歩踏み込んで考えてみたいと思います。あなたがたが近づいているのはシナイの山ではない。これは神様に与えられた人生の馳せ場において、倦み疲れてしまった者、善きことをする者であることを願いつつも、道を踏み外してしまった者、失望の危険にあらゆる者を力づける言葉です。あなたがたは律法のもとにいるのではない。神様はあなたがたに何かをせよ、こうであらねばならないと要求しておられるのではない。神様はあなたがたの悪を、足りなさを責めようとして観ているのではない。まったく逆で、あなたがたをゆるし、あるがままの姿で受け入れ、恵みをもって立ち上がらせようと招いてくださっているのだということなのです。
そして、私たちが謙虚に受けとめなければならないのは、私たちは、そのような励ましをいつも必要としているということです。というのは、私たちは律法によって義とされないことは十分に分かっているはずなのに、律法によって義となりたい思いが心のうちに起こってくるからです。わたしはよく申します。福音とはイエス様がしてくださったことと、してくださること、この二つによって救われることだ、と。しかし、そう思っていても、自分は救われるために何かしなければならないという気持ちを完全に拭うことができないのです。そして、律法のもとに生き、律法によって自分を裁き、他人を裁き、怒りや苛立ちや失望のどん底に落ちてしまうのです。
それは神様が望んでおられることではありません。神様がわたしたちに望んでいることは、イエス様の恵みによって大胆に神様に近づくことです。そして、感謝と讃美に溢れることです。イエス様の恵みを証し、希望を語り、ひとりでも多くの人をシナイからシオンに導くことです。律法によって自分を裁いてはいけません。他人も裁いてはいけません。誰も裁いてはいけません。神、御子によって我に語り給へり、なのです。
わたしたちはモーセによってではなく、イエス様によって、神様に近づく者なのです。律法ではなく、福音によって、神様に近づくのです。業ではなく、恵みによって救われるのです。どうか、福音信仰にしっかりと立ち続ける者でありましょう。
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目次 |
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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