ヘブライ人への手紙 51
「我、汝を去らず、汝を捨てじ」
Jesus, Lover Of My Soul
新約聖書 ヘブライ人への手紙13章1-6節
旧約聖書 申命記31章7-8節
愛と欲望
 今日から13章に入ります。私たち信仰者がどういう生活をしたら神様に喜ばれるのかということが、具体的に勧められているところです。

 最初に記されているのが、《兄弟としていつも愛し合いなさい。》ということです。ここで《兄弟》とは、イエス様によって救われて、一つの霊的な家族の絆に結び合わせられた者たちという意味です。具体的に言えば、教会員同士、あるいはクリスチャン同士です。

 愛するとは、具体的に何をすることなのでしょうか? いろいろな言い方ができると思いますが、わたしは「共に生きる」ということではないかと思っています。共に生きるとは、好き嫌いではありません。必ずしも自分は相手が好きであるとは限らない。教会員同士であれ、家族であれ、ご近所であれ、もし好きであるということが愛することであるならば、愛しているとは云えない、そういう場合があるのです。しかし、そういう感情を抜きにして、教会員として、家族として、ご近所として、悩んだり、苦しんだり、争ったりしながらも、共に生きる相手として認め、受け入れていく。もし愛していないならば、病気で苦しんでいようが、飢えて死んでいこうが、あるいは泣こうが喚こうが、無視すればいいのです。しかし、どんなに憎らしい相手であってもそれができない。さまざまな関わりを持ちながら、結局は共に生きる者として互いを認めていく。愛とはそういうものではないかと思うのです。

 その愛は、教会員同士のうちにとどまらないで、その外にいる人たちに向かって広がっていくものでもあります。たとえば、《旅人をもてなすことを忘れてはなりません》とあります。《旅人》は、自分や共に生きる仲間との違う、その外の世界に生きている人です。わかりやすくいえば「よそ者」です。イエス様も《自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。》《自分の兄弟にだけ挨拶をしたところで、どんな優れたことをしたことになろうか。》(『マタイによる福音書』5章46-47節)と仰いましたが、愛とは身内から始まるものでありましょうが、それにとどまらず、外に世界に広がっていくものなのです。

 《牢に捕らわれている人を思いやりなさい》ともあります。牢に捕らわれている人とは、悪いことをした人です。その悪いことというのは、その時代や生きる場所によって内容が違ってくることがありますが、要するに「あなたはこのままではこの社会で共に生きることができない。」と見なされた人だと云えましょう。しかし、この世の裁きによって、そのように見なされた人たちが、神様の前でも共に生きる相手ではないということではありません。だから、そういう人たちに無関心であってはならない。牢に入れられる者に対しても、なお共に生きる相手として関心を持ち、おもいやりを持ちなさいということなのです。

 そして《虐待されている人たちのことを思いやりなさい》とも言われています。虐待とは、むごたらしい扱いをするということです。どんな理由があるにしろ、人を虐待してはいけない。人に限らず、動物だって虐待をしてはいけない。すべては神様がお造りになったものですから、それを私たちが虐待するような権利はないのです。

 このようにまず兄弟、そして旅人、それから牢に捕らわれている人、虐待されている人というように、共に生きる相手が外へ広がっていく。それが愛の深められた生活なのです。

 4節には、結婚生活について記されています。結婚というのは、もちろん愛を尊ぶ生活ですが、ここで言われているのはその愛を汚すもの、みだらな欲望についてです。このような欲望は決して愛ではないということはいうまでもないでしょう。同じような意味で、金銭への執着ということが言われています。これも欲望です。欲望というのは、誰にでもあることですし、それ自体が悪ではありません。しかし、満ちたりることを知らない過剰な欲望、貪欲が、私たちの心や生活を狂わせているのは事実でありましょう。

 加島祥造さんの『求めない』という本を読んだことがあります。加島さんは大学で英文学の教授をしておられましたが、今は道教の生き方を説く人としていろいろな本をお書きになっているようです。加島さんは『求めない』という本のなかでこんなことを書いておられます。

誤解しないでほしい。「求めない」と言ったって、どうしても人間は「求める存在」なんだ。それはよく承知の上での「求めない」なんだ。食欲性欲自己保護欲種族保存欲。みんな人間のなかにあって、そこから人は求めて動くーそれを否定するんじゃないんだ、いや肯定するんだ。五欲を去れだの煩悩を捨てろだのと、あんなこと嘘っぱちだ、誰にもできないことだ。「自分全体」の求めることは、とても大切だ。ところが「頭」だけで求めると、求めすぎる。「体」が求めることを「頭」は押しのけて、別のものを求めるんだ。しまいに余計なものまで求めるんだ。じつは、それだけのことなんです、ぼくは「求めない」というのは。求めないですむことは求めないってことなんだ。すると体のなかにある命が動きだす。それは喜びにつながっている。

 なかなか考えさせられるお話しだと思います。生きるために必要なことは体が求めています。けれども、人間というのは頭で欲望を造り出し、それを満たそうと、体の自然の要求など無視して走ってしまう。そして、いつしかそれがないとダメだというせっぱ詰まった気持ちにまでなってしまう。だから、敢えて「求めない」という逆の意識を持つことが必要なんだということだと思うのです。

 そうすると、「体のなかにある命が動き出す」という言葉を、わたしはとても印象深く聞きました。自分本来の、自然体の命が、活き活きとしてくる。逆にいうと、貪欲というのは、それを殺しているということなんです。

神に喜ばれる生活
 ところで、いま簡単に申しましたような愛の生活、また貪欲を戒める生活、これを単純に「神様に喜ばれる生活」と言っていいのかということを、私たちは考えなければいけないと思うのです。確かに、兄弟を愛し、旅人をもてなし、過ちを犯した人、虐げられている人への思いやりをもった生活をし、家庭を守り、金銭に執着しないつつましい生活をするということは、誰もが人として立派なことだと認めることでありましょう。

 しかし、逆にいうと、こういう生活はキリスト教でなくても教えていることですし、ある意味では誰に教わらなくてもそれぞれ心得ているようなことではないのでしょうか。実際、クリスチャンでなくても、そういう人たちがたくさんいるのです。それならば、こういう生活さえきちんと守ることができれば、ことさらイエス様への信仰などいらないという話にもなりかねません。

 それとも、信仰者であるためには、イエス様を信じるだけではダメで、当然、こういう生活を心掛けるべきである。そうでなければ神様に喜ばれないのだということなのでしょうか。こういう考え方は、私たちの中に案外多く見受けられることのように思います。「クリスチャンのくせに、あんなことをして・・・」「わたしはこんなことをしてしまったから、もうクリスチャンと呼ばれる資格はない」そんな話をよく聞くのです。

 けれども、もしそういうことならば、『ヘブライ人への手紙』は1〜12章までいったい何を語ってきたのでしょうか。どんなにイエス様の罪の赦し、救いということを教えられても、結局、人としての生活をきちんと守れなければ神様に喜ばれないということになってしまうなら、1〜12章などあまり意味がないことになってしまうのです。

 そうではないのです。11章6節には《信仰がなければ神に喜ばれることはできません》と書いてありました。信仰とは、イエス様によって示された罪の赦し、神様の愛、天国の祝福というものを信じることです。私たちが何をしたか、しなかったかということではなく、イエス様がしてくださったこと、してくださることによって自分が救われるのだと信じることです。したがって信仰者の生活でいちばん大事なことは、隣人愛とか、清貧であるとか、そういうことではないのです。イエス様を救い主として信じ、喜びと祈りと感謝と祈りをもって生活することなのです。

 そういう意味では『テサロニケの信徒へ手紙1』5章16-18節のみ言葉こそ、信仰生活を物語っていると言ってもいいでありましょう。

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。

 どんな時にも喜び、祈り、感謝の生活をするということは、イエス様への信仰なくしてできなることではありません。

 『ヘブライ人への手紙』も12章の終わりでは、《わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう》とあるのです。ところが13章になると、いきなり、愛がなくてはダメだ、思いやりがなくてはダメだ、結婚生活を大切にしなさい、貪欲にならず質素に生活しなさいということが言われている。それはどういうことなのでしょう。
 こういう短歌があります。

姦淫を十たびせり沈鬱に街ゆけばマタイ伝五章

 上田三四二(1923-1989)という有名な歌人の歌です。面白いと言ったら申し訳ないのですが、ちょっと恥ずかしいほど赤裸々に自分の心を詠んだ歌として興味をひかれます。歌人というのは、歌を作るだけで食べていくのは難しいようでありまして、よほどの売れっ子でない限りたいてい立派な職業をもっておられます。上田三四二も京都帝大の医学部を出たお医者さんでした。この歌は1963年、上田三四二が清瀬の結核療養所に勤務した38〜9歳頃に詠まれたものです。「マタイ伝5章」というのは、5章27-28節のことであるに違いありません。上田は文語訳聖書を読んでいたでしょうから、まず文語で紹介したいと思いますが、そこにはこういうイエス様の言葉が記されています。

「姦淫するなかれ」と云へることあるを汝等きけり。されど我は汝らに告ぐ、すべて色情を懐きて女を見るものは、既に心のうち姦淫したるなり。

 上田がクリスチャンであったとは聞いておりません。しかし、クリスチャンでなくても、当時の人は聖書をよく読んでおられたようで、短歌にも聖書やそれにまつわることがよく出てくるのです。わけてもマタイによる福音書の5-7章は「山上の垂訓」と言われるイエス様の説教が記されているところでありまして、クリスチャンでない人もいろいろと考えさせられるところです。上田もイエス様の説教を印象的に受けとめていたのでありましょう。

 そして、「姦淫を十たびせり」というのです。もちろん、これはイエス様のいうところの心のうちなる姦淫であります。「十たび」というのは10回という意味ではなく、何度もそのようなことをしているということでありましょう。自分は色情を懐きて女を見る者であるということを告白しているわけです。

 今も申しましたように上田三四二は、お医者さんでした。人々から「先生、先生」と呼ばれる人です。それだけ社会的名誉も認められている反面、高いモラルが求められているのです。医者とはいえ、生身の人間です。色情をもって女性を見ることもありましょう。しかし、彼は理性の力でそれを抑え、そのような精神の放蕩に走ることは決してしないのです。そのように世間が期待されるモラルを忠実に守りながら、他方でその窮屈さに疲れきってしまっている、そんな上田三四二の心情がうかがえる歌です。

 私は、これは上田三四二に限った話ではなく、どんなにモラルの高い人であっても、結局、好きこのんでそういう道徳観念に生きているのではなく、仕方なく生身の人間を圧し殺しながら、そうしているということがあるのではないでしょうか。それは、自分が築いてきたもの、名誉や信頼というものが底回れるのが怖いからです。モラルの背後にはそういう計算があるのです。それをえぐるように指摘するのが、イエス様の言葉であったわけです。

 神に喜ばれる人間になるということは、そのようにケダモノのような本性を内に押さえ込みながら、表面だけでも立派な人としてふるまうということではないと思うのです。かといって、イエス様を信じた途端に、私たちの心の中からすっかりそういう気持ちが浄められ、消滅してしまうというわけでもない。洗礼を受けてクリスチャンになったところで、依然として醜い自分の姿がそこにあるのです。それなのに急に愛の生活をせよ、清貧に生きよなどと言われても、表面的にはともかく、心の内側はそれについていくことができませんから、次第に疲れてしまうことになるわけです。
神に仕える
 『ヘブライ人への手紙』の著者は、そういうことをちゃんと知っているはずなのです。だからこそ1〜12章を書いてきたのです。私たちは自分の業、律法によって救われるのではなく、天の大祭司なるイエス様のとりなしと犠牲によって、罪赦された者とされ、神様の愛を受ける者とされ、神様のみもとに近づくことができるようになるのだということです。4章14-16節にはこう書いてありました。

 さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。

 《大胆に恵みの座に近づこうではありませんか》と言われています。《大胆に》と、恐れなくということです。私たちは決して立派な人間ではありません。神様の要求に完璧に答えて生きることなどできません。クリスチャンでありながら、あんなことも、こんなこともしてしまう。罪に破れて生きる人間です。しかし、だからダメだというのではなく、それでもいいから、ただイエス様の救いだけを信じて、大胆に神様の恵みの座に近づきなさいというのです。神様に近づく資格であろうが、清さであろうが、知恵や力であろうが、そういうものはなにもかもイエス様が与えてくださるのだから、そのことをひたすら信じて、自分が如何なるものであるということに躊躇することなく、ただ神様に近づくことを願い、神様のそばにいることを求めて生きなさいということです。

 同じことが今日お読みしました13章にも記されていたのです。5節の後半〜6節、

神御自身、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われました。だから、わたしたちは、はばからず次のように言うことができます。「主はわたしの助け手。わたしは恐れない。人はわたしに何ができるだろう」

 私たちは神様に愛され、神様に決して見放されない者であるということが言われています。もちろん、それは私たちが何かよいものを持っているからではなく、イエス様の御救いによることです。そのイエス様の救いによって、神がよしとされた者なのです。その愛を信じていれば、人が、この世が、あなたの罪を曝こうとも、恐れることはないというのです。神様はそれをすべて承知の上で、信仰者として、神様と共にある生活へと私たちを招いてくださっているのです。

 私たちは、自分の愚かさを知り、無力さを知り、心の醜さを知り、それにもかかわらず、招き給う神様の愛を知って、神様の招きに応えるべきではありませんでしょうか。私は本当に罪深い人間です。とても、皆様の尊敬を受けるような人間ではありません。それにかかわらず、わたしは牧師と呼ばれることに甘んじ、大胆不敵にも皆様の前でこうして説教をなど垂れている。そのことにわたしはいつも恐れを感じています。しかし、それならばなぜ牧師であり続けるのか。なぜ説教をしつづけるのか。わたしのすべてを知った上で、わたしをおもちいくださっているのだと信じるからです。

 ここに勧められている愛の生活、貪欲を律した生活をするということもそうでありましょう。人間ですから、心のなかにはいろいろな思いがうずまくのです。上田三四二と同じです。しかし、沈鬱になる必要はありません。こんな自分であるにもかかわらず、そのような生活へと神様が招いてくださっているからです。完璧でなくては人を愛していけないというのではなく、不完全な者として、エゴに満ちたものとして、それでもそのなかで精一杯に人を愛することが、ここで求められているのです。私たちの心のなかにさまざまな欲望が渦巻いている。それを消すことはできない。それが私たちの本性だとしても、そのなかで精一杯、を律して生きること、たとえ破れることがあっても、なお神様が求め給う生活を追い求め続けること、それがここで求められていることなのです。

 神様はそれを偽善とは呼ばないのです。偽善とは、自分の弱さ、貧しさ、醜さがないかのように思い込み、そのように振る舞うことだからです。私たちは、神の恵み、憐れみによって、私たちは信仰者として招かれている生活を目指して歩もうではありませんか。
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