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先週の日曜日の朝、教会員のK姉からお電話がありまして、お友達のお姉さんが癌を患って余命幾ばくもない状態である、自分も少しでも神様のことを伝えようと本やCDを送ったり、お見舞いにも行ったが、ぜひ先生も行ってくれないか、というのです。都合の良いときにと言われましたが、時間がないということなので待たせるわけにはいきません。そこで、では今日の午後に行きましょうと答えまして、先週の日曜日、K姉と共に埼玉の坂戸市にあります埼玉医科大国際医療センターに入院されているその方をお訪ねしたのでした。Yさんとおっしゃる方です。
初対面ですから、あまり心の深くまで入り込んでお話しするということはできなかったのですが、「心の問題で特にお辛いことはありますか」とお訪ねすると、「何のために生きているのかわからない」と仰いました。この言葉には、いろいろな意味があるように想像できました。苦しいだけの毎日をどうして生きていかなければならないのか? 自分のためにも、他人のためにも、何の役にも立たない人生をどうして生きて行かなくてはいけないのか? 頑張って耐え忍べば、何かよいことがあると云えるのだろうか? これはYさんだけではなく、終わりの見えない苦しみの中にある者が、何もできなくなってしまった者が、必ず問うことになるだろう人生の問題でありましょう。そして、私たちは、今がどうであれ、いつでもそのような者に成りえるのだということを忘れてはいけないと思うのです。
Yさんには、キリスト教の初歩から解き明かす時間はありませんから、詩篇23編をお読みすることにしました。これは、よくご存知の方が多いと思いますが、神様が私たちの羊飼いとして人生を導いてくださっているという信仰を表した美しい詩篇です。《死の陰の谷を行くときも》、《わたしを苦しめる者を前にしても》と歌われています。神様は、人生のどんなときにも共にいてくださる。実は、それこそが、私たちがどんな日も生きることに意味を与えるものではないでしょうか。なぜならば、私たちの人生の究極的な目的は、神様と共に生きつづけるということにあるからです。ですから、《主は羊飼い》で始まるこの詩篇は、《主の家にわたしは帰り、生涯、そこにとどまるであろう。》という言葉で結ばれるのです。
Yさんは詩篇23編のお話しを黙って聞いておられ、私がお祈りをした後に、「洗礼を受けたい」と申し出られました。「イエス様を救い主として信じますか」と尋ねると、「はい」とお答えになったので、私はその場で洗礼式を執り行いました。普通はこのようにその場で洗礼をするということはありません。きちんと準備をし、試問会を開き、その上での洗礼式になります。しかし、Yさんのように時間がない場合には、「緊急洗礼」を授けることができることになっています。実は、みなさんにも知っておいて欲しいのですが、このような緊急洗礼は、牧師でなくても授けることができます。もっと言えば、未信者が洗礼を授けるということもできます。ただし、その洗礼が有効であるかどうかは、緊急洗礼の報告を受けた教会(役員会)が判断をします。Yさんの場合も同じで、八月の役員会で正式に洗礼を認められ、私たちの教会員として迎えられることになります。そのことをみなさんにご報告しておきたいと思うのです。
Yさんは洗礼をお受けになったあと、何かふっきれたような清々しいお顔をなさり、帰り際、私に「先生、わたしは何をしたらいいのでしょうか」とお尋ねになりました。ご病気になってから、Yさんはひたすら治療を目標に頑張ってこられました。それは、治療の後の人生というものを考えていたからでありましょう。しかし、辛い治療を続けても、少しもよくならない。お医者さんは「頑張れ」というけど、頑張ってもどうなるか分からない。そういう状況の中で生きる力を失っていたのですが、治療以外に、今自分にできることをしようという気持ちがわいてこられたのです。それこそが洗礼によってYさんに与えられた「新しい命」でありましょう。私は「どうぞ愛する人々のために神様のお守りと祝福をお祈りしてください」とお伝えしました。Yさんは力強く「わかりました」とお答えくださったのが印象的でありました。
さて、このような経験をいたしますと、わたしは、洗礼を受ける者の信仰とか、授ける者の信仰とか、そういう人間の及ぶ何かによってもたらされるようなものではなく、そのすべてを越えたイエス様の恵みなのだなあということをひしひしと感じるのです。洗礼は本当に人間の知恵や力、信仰さえも超え天の恵みなのです。 |
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今日はもうひとつ洗礼のお話しをしたいと思います。ご存知の方も多いと思いますが、58歳でカトリック教会の洗礼をお受けになった加賀乙彦さんという、精神科医にして小説家の方がおられます。その加賀さんが、「五十八歳の受洗記」という文章を書いておられるのです。
カトリック教会という組織に所属するのが気が進まなかったと私は書いた。しかし、洗礼を受けるとは組織に所属することではなく、大きな喜びを受けることだったのだ。この差違が、受ける前には全く分からなかった。(中略)私たちの受洗式が大勢の人々の前でおこなわれたので、何だか派手すぎて嫌だったという人がいた。が、これも違うのだ。大勢の人々が私たちを冷ややかに観察していたならそういう言い方もできるが、あの場合、大勢の人々は私たちの受洗の喜びを祝おうと集まってきて下さったので、式場全体が喜びの表現だったのだ。
受洗後、この稿を書いている現在、二ヶ月半が経った。何が変わったかと問われれば、すっかり変わったと答えたいのだが、実は大した変化はない。ただ、一人のキリスト者としてとぼとぼと歩き出した感じは強くある。日曜のミサにあずかるのが楽しくて仕方がない。ミサに行くのが義務ではなく、喜びなので自然に行くという感覚は、受洗前にはなかった。
聖書の読み方も変わった。以前は読んでも読まなくてもよい一冊の本に過ぎなかったのが、自分と血のつながりのある、言ってみれば、“ご先祖さまの古文書”のような気がしてきたのだ。(加賀乙彦、「五十八歳の受洗記―わたしはどう変わったか」、『評論集・下巻 心の遍歴と宗教』)
洗礼を受けたからといって、何かもすっかり変わったとは云えないと言っております。しかし、教会に行くことが喜びになったこと、そして、聖書の読み方が変わったこと、この二つは洗礼を受ける前とは確かに違ってきたというのです。小さなことかも知れません。洗礼を受けたら病気が治った。仕事がうまく行くようになった。優しい人になった。罪を犯さないようになった。そういう、いかにも変化と云えるようなものではないのです。しかし、この小さな変化が人生において持つ意味や力は、ほんとうに計り知れないものがあるのです。それは、私たちの命の根源における変化、つまり神様と私たちのあり方が変わったということを意味しているからです。
とくに聖書は「ご先祖様の古文書」のような気がしてきたという言い方が面白いと思います。皆さんの家にご先祖様にまつわる古文書があるかどうか知りませんが、もしそういうものがあったとすれば、たとえ商売の台帳のようなものであろうと、名前ばかりが連なる系図であろうと、つくづくとそれを眺めるだろうと思うのです。そこには、たんなる親近感を憶えるというだけではなく、何か脈々とした血のつながり、つまり命のつながりを感じるからです。逆に、そういうものがなければ、博物館においてあるような歴史的価値ある古文書でも、私には何の興味もありません。もし何か興味があるとしたら、その高価な、珍しい古文書が幾らで売れるか、その程度のものでありましょう。
聖書は、確かに超一級の古文書です。教会に聖書を学びたいと言っていらっしゃる方がよくおりますが、そういう人たちのなかには「聖書は人類の遺産としてとても価値あるものだと思うので、死ぬまで一度は読んでおきたい」と仰る方が多いのです。人類の遺産としての聖書、それも間違いではありませんでしょう。しかし、その聖書が、今を生きている自分の人生に直接的につながっている。「ご先祖様の古文書」として受け取るということは、聖書のなかに生きている人々、それを語り継いできた人々、また読み継いできた人々と、自分との間に切っても切れない深いつながりを憶えるからです。そのような人々の末に、今自分が生きているのだという実感なのです。
これは洗礼を受けてクリスチャンになるということが何を意味するかということを、或る意味で的確に捕らえた話だと思います。クリスチャンになるということは、何かしら信仰的な考え方を持ったり、そういう生き方をすることとは、少し違うのです。そのようなことよりももっと大切なことがある。それは神を愛する者たちの群れに、その末席に私たちが加えられるということです。神を愛する者たちの群れ、それは神の民と言ってもいいかもしれません。神の家族と言ってもいいかもしれません。あるいはもっと具体的に教会と言ってもいいのです。その一員に加えられることなのです。
加賀乙彦さんは、信仰をもつことはやぶさかではないけれども、洗礼を受けることによって教会という組織に所属するということに抵抗を憶えておられたと言っています。そういう人はとても多いと思います。しかし、洗礼を受けて教会の一員となるということは、地上の組織に所属するというよりも、神の国の一員に加えられることなのだということが分かり、喜びを感じたというのでありましょう。
たとえば先ほどお話ししたYさんもそうです。信仰的な考えとか、生き方というのは、これからのことでありましょう。それとて、ご病気のゆえにこれからどこまで身につけることができるかどうかわからない。しかし、洗礼を受けるということはそういう信仰の未熟さ、足りなさというものを越えて、私たちを神の国の一員とするということなのです。そこから、神の国の一員として生活が、生死をも超えて始まっていくのです。また教会には幼児洗礼というものがあります。生まれたばかりの幼子が両親の信仰によって洗礼を授けられ、教会の一員となるのです。それは神の国の一員として、これからの人生を生きていくということです。だからといって、特別に清く正しく間違いのない人生を生きるとは限りません。信仰だってなかなか自分のものとして受け入れられない人もおりましょう。しかし、そうだとしても、どんな時にも、洗礼の恵みによって、その人は神の民、神の家族の一員として神様に数えられ、憶えられる恵みの中を生きるのです。洗礼を受けるとは、そのように信仰を越えた恵みなのです。
だから、洗礼を受けて、急に聖書が分かるようになるとは限りません。しかし、少なくとも聖書を誰が他の家の古文書ではなく、旧約聖書、新約聖書において愛する人々、神に愛された人々から続く神さまの家の脈々とした歴史の中に自分が生きているという実感を持って受け取るようになるのです。
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さて、今日お読みした『ヘブライ人の信徒への手紙』でありますが、今お話ししましたようなことを考えて読むと、分かりやすいのではないでしょうか。
あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい。
《彼らの生涯の終わりをしっかり見て》と言われていますから、すでに天に召された指導者たちのことでありましょう。たとえば荒川教会でみ言葉を語り続けて天国に召された勝野和歌子先生がおられます。直接知る人も、そうでない人もおりましょう。今は、私がこうしてみ言葉を伝えているにしても、それは勝野先生のなされた指導とまったくかけはなれたものではなく、その流れの中にあるものなのです。勝野先生が語られたみ言葉を、その信仰を、今も私たちがしっかりと教会の中で守り、保ち続けるということが大切だということを、聖書は語っているわけです。
もちろん、勝野先生だけではない。もっと視野を広くすれば、この2000年の教会の歴史の中で、み言葉を伝えてきた指導者がいるのです。そういう人たちの言葉を、信仰を、私たちは書物などを通して知ることができますが、そのように連綿と語り継がれてきたものを大事にするということです。
8節を見ますと、こう記されています。
イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。
昨日と今日、今日と明日、明日と一年後・・・この世の中も、私たちの生活も心も、必ず変化をします。しかし、風の吹くまま、気の向くままということであるならば、私たちは根無し草でありましょう。そうではなく、私たちは昨日も、今日も、また永遠に変わることのないイエス様の愛と救いに捕らえられているのです。そこにしっかりと根を下ろしているのです。ですから、どのような変化が私たちのうちに起ころうと、その根を断ち切りさえしなければ、私たちは大丈夫です。大丈夫というのは、イエス・キリストの愛と救いが、私たちをどんなときにも支え、守り、祝福へと導いてくださるということです。だから、変化する度に異なる教え、異なる救いを求める必要はないのだ。いつも私たちに有益な恵み、教えは、イエス様から私たちのもとにくるのです。9節
いろいろ異なった教えに迷わされてはなりません。食べ物ではなく、恵みによって心が強められるのはよいことです。食物の規定に従って生活した者は、益を受けませんでした。
《食べ物ではなく、恵みによって心が強められる》とは、本当に大切な、よく憶えておきたい言葉だと思います。食べ物は、私たちの働きによってえることができます。何を食べるか、食べないか、どれだけ食べるか、食べないか、すべて私たちの知恵や力の問題です。しかし、いくらそういうことをして、食物規定であろうが、健康規定であろうが、自分のために一生懸命に生きても、そういうもので私たちの人生が守られるわけではありません。それを越える禍いが、人生には訪れるのです。しかし、昨日も今日も、永遠に変わることのないイエス様に根ざし、そこから私たちのうちに注ぎ込まれる恵み、教えというものによって、わたしたちが強められること、それは私たちを本当に強くするということなのです。
では、イエス様はどこにおられるのか? 10〜14節にそれが記されています。それは《門の外》、《宿営の外》であると記されています。だから、私たちも《門の外》、《宿営の外》に出て、イエス様のみもとに赴こうではないかというのです。その際に《イエスが受けられた辱めを担い》とも言われています。これは何をいっているかといえば、ユダヤ教という枠を越えて、キリスト教として巣立っていこうということなのです。これはヘブライ人に対して書かれた文書なので、特にそういうことが強調されていると思いますが、ユダヤ人に対してもうイエス様はユダヤ教からは「捨てられた石」なのです。しかし、この「捨てられた石」こそ、新しい神の民、教会の親石となる石なのです。だから、あなたがたもユダヤ教を飛び出して、ユダヤ人からは棄教者、異端者と言われようとも、そのイエス様の受けられた辱めを喜んで担って、ユダヤ教の外に出て行こうということです。
私たちがユダヤ人でもなく、ユダヤ教徒でもないにもかかわらず、旧約聖書や新約聖書を読み、その信仰に生きることができるというのは、その信仰がイエス様によって民族宗教としての狭い枠を破られ、すべての人に通じる真理として捉え直され、教え直されたからなのです。それは、人は律法の行いによってではなく、神の恵みによって、すなわちイエス・キリストによって救われるということです。
したがって、私たちの信仰、礼拝とは、このイエス様を通して神を喜び、神を讃美をすることだということが、15-16節に記されています。
だから、イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。善い行いと施しとを忘れないでください。このようないけにえこそ、神はお喜びになるのです。
神様がお喜びになること、それは私たちが罪のない立派な人間になることではなく、神の恵みを喜び、その感謝と讃美に生きることだというのです。
そして、再びみ言葉を語る指導者について記されています。17節以下ですが、要するにそのような人々を助け、支え、祈りなさいということです。内容的にはそんなに難しいことが書いてあるわけではありません。ただ、語り継がれてきた神様のみ言葉に生きる者であるということ、それはすなわち、神の言葉を語る者を大事にし、また聴くことを大事にすることであるということなのです。
先日、支区の教師会がありまして、そこで幾つかのテーマに別れて語らいがもたれました。わたしは「説教とその準備」というテーマのグループに入ったのですが、そこで改めて感じましたのは、神様の言葉を伝えるということに、わたしだけではなく誰もが恐れを感じ、また迷い、悩み、試行錯誤をしているということです。自分の考えを伝えるならば、まだ楽なのです。「わたしはこう思う」と言えばいいだけのことです。しかし、神様のお言葉、神様のお心はここにあるのだということを伝えるというのは、本当に愚かな人間が、不完全な人間が担えることなのか、真面目に考えれば考えるほど、その難しさを覚えます。そのような労苦を乗り越え、神御自身がこの汚れた唇をとおして語ってくださるのだという信仰に立ってこそ、はじめてみなさんの前で説教者として立つことができるのです。私たちがみ言葉を聞くためには、まずそのような者のために祈るということが必要だということでありましょう。
どうか、この弱き僕のためにも祈っていただきたいと思います。そして、この荒川教会が、神に愛された者たちの信仰を連綿と受け継ぎ、またその中に多くの人を迎える教会となることができますように祈りを合わせる者でありたいと願います。
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目次 |
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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