241

生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるように

(新約聖書『フィリピの信徒への手紙』1章20節から)
 人生の奇禍に「まだ死にたくない」と叫ぶ人もいれば、「もう死んでしまいたい」と嘆く人もいます。しかし、私たちは本当に生きるということや死ぬと言うことがどういうことであるかを知っているのでしょうか。「生きたい」と願う人も、漠然と死ぬことを恐れているだけかもしれません。「死にたい」と願う人も、勝手に死ねば楽になると思い込んでいるだけなのではないでしょうか。生きるにしても、死ぬにしても、そこに神様の愛なるキリストがおられないならば、そこにどんな救いがあるというのでしょうか?

242

新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。

(新約聖書『マルコによる福音書』2章22節から)
 イエス様が私達に与えてくださる祝福の杯は、「新しいぶどう酒」で満ちています。新しいぶどう酒、それはまだ私達が味わったことがないような甘美なる祝福であります。しかし、それを受け取る私達の革袋も新しくせよと、イエス様はおっしゃいます。新しい革袋、それは今まで以上に打ち砕かれた私達の信仰のことでありましょう。信仰というのはだんだんと傲慢になってくる危険があります。それをすっかり打ち砕かない限り、新しい革袋を差し出さなければ、主の新しい祝福を受け取ることはできないのです。

243

イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、・・・

(新約聖書『ヨハネによる福音書』6章19節から)
 縁あって何度か三宅島に行きました。6時間ほどの船旅ですが、立派な船に乗っていたとしても海の上というのは常に不安を感じます。ただっ広い海の中にポツンと浮かんでいる心許なさ、常に波にゆられている不安定さ、底知れぬ海の深さに対する恐れ・・・弟子たちの乗った小さな舟が荒れた湖の真ん中で立ち往生したとき、彼らはきっと生きた心地もしないほど恐怖に打ちのめされたに違いありません。その大パニックの中で弟子たちは、何にも動かされない静かさをもって近づいて来る主の御姿を、はっきりと見たのでした。

244

わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。

(新約聖書『コリントの信徒への手紙一』13章12節から)
 「神様はどうして?」とか、「御心はどこにあるのでしょうか?」などと尋ねられることがよくあります。牧師なら分かるだろうと思ってのことでしょうが、残念ながら「分かりません」と答えることばかりが多いのです。牧師でありながら、私には分からないことがいっぱいあります。分からないから躓くという人もいるでしょう。でも人間の頭で分かってしまうような神様にどんな魅力がありましょうか? どんな希望がありましょうか? 分からないからこそ、私は神様を愛し、信じ、期待するのです。

245

「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないほしい」

(新約聖書『マルコによる福音書』5章7節から)
 私たちの魂が罪の中にあるとき、イエス様は血潮の恩寵によってその魂を解放し、聖めようとして近づいてくださいます。しかし、私たちの罪の中にある魂は、しばしば主に向かってこう叫ぶのです。「私にかまわないでくれ! 私を苦しめないでくれ」と。罪ある魂は、イエス様から逃れ、隠れ、罪の中に居座り続けることこそが平安だと思い込んでいるからです。誉むべきかな、イエス様はそのような私たちの愚かな叫びを無視されます。そして、近づき、「汚れた霊、この人から出て行け」と言ってくださるのです。感謝。

246

それはこの世の知恵ではなく・・・隠されていた、神秘としての神の知恵であり・・・

(新約聖書『コリントの信徒への手紙1』2章7節から)
 世間の常識、成功の体験談、仕事のノウハウ・・・この世にはこの世の知恵があります。しかし、教会の問題を解決する時に必要なことは、この世の知恵ではありません。この世の知恵に頼るならば、この世的な教会ができますが、それではもう神の教会ではなくなってしまうからです。私たちが教会を神の栄光で輝かそうとするならば、まず神の御言葉に耳を傾け、信仰をもって応じることが必要なのです。世の知恵は神の知恵を愚かだと断じます。その結果が十字架です。十字架を掲げる教会は、神の知恵を掲げる教会なのです。

247

死ぬときは、何ひとつ携えて行くことができず、名誉が彼の後を追って墓に下るわけでもない。・

(旧約聖書『詩編』49編18節から)
 お金があろうが、名声があろうが、死は平等に訪れます。死ねば、みな変わりばえのしない骨になるのです。道端で死んだ人も、仰々しい葬儀で葬られた人も、骨になればみな同じです。このような人生を意味あるものにしてくださるのは神様だけです。なぜなら、神様は私たちを愛し、私たちに永遠の価値を与えてくださる方だからです。人生は決して空しいものではありません。神様なんか信じなくてもお金があればいい、健康であればいい、権力を手にすればいい、そういう生き方が人生を空しくしてしまうのです。

248

イエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣き出した。

(新約聖書『マルコによる福音書』14章72節から)
 御言葉は「どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離しほどに刺し通して、心の思いや考えを見分ける」(ヘブライ4:12)と言われています。ペトロはまさに主の御言葉によって胸を刺し貫かれ、自らの尊大、愚かさ、頑なさを思い知り、その処置無き罪深さに泣き崩れたのでした。御言葉に親しむ私たちがこのような深い悲しみを経験しないで済むはずがありません。しかし、ペトロが涙で腫らした目をもって主の十字架の愛を仰いだように、私たちもまた深い罪の悲しみをもってそれを仰ぐことが許されているのです。 

249

今それをやり遂げなさい。・・・進んで行う気持があれば、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられるのです。

(新約聖書『コリントの信徒への手紙二』8章11-12節から)
 自信がない、時間がない、お金がない、協力者がいないと、自分の持っていないことに目を注いでいると、結局は何もできない人間になってしまいます。イエス様が人々を満腹させようとなさった時、弟子たちはお金もないのに無理だと言いました。しかし、ある少年が二匹の魚と五つのパンを差し出します。焼け石に水のような行為ですが、主はそれを祝福なさり、神さまのお力によって五千人の人々を満腹させたのでした。神さまの御業を成し遂げるためには、「進んで行う気持ち」をもって「まず始めること」が大事なのです。

250

聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。

(新約聖書『テモテへの手紙二』3章16節から)
 「聖書をねぎって買う人はないが、ねぎって読む人はザラにある」(長谷川初音) 聖書をねぎるとはどういうことでしょうか。気分で読んだり読まなかったりする。都合にいいように解釈する。耳の痛いところや退屈なところは読まない。しかし、一番のことは十字架の福音に耳を傾けず、これを単に道徳や思想や処世術の書として読むことこそ聖書の価値を貶めることでありましょう。十字架の福音こそ永遠の命を約束する希望なのです。そのことを忘れずに聖書に日々親しむことを心掛けたいものです。

251

わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。

(新約聖書『ヨハネによる福音書』17章15節から)
 イエス様は御国の子らが不信仰な世にあって非常に困難な闘いの生活を強いられることをご存知でおられます。それにも関わらず、イエス様が祈られたことは、私たちが不信仰な世を逃れることではありませんでした。その中に留まって、しかも不信仰に染まることなく、御国の子らとして信仰に生き抜くことであったのです。偽りの世にあって偽り者にならぬこと、空しき世にあって確かな希望を持ち続けること、そのように御国の子らが世の闘いに勝利することによって、神の栄光があらわされることこそイエス様の私たちに対する願いなのです。

252

慈善の業においても豊かな者となりなさい。

(新約聖書『コリントの信徒への手紙2』8章7節から)
 コリント教会の信仰は、知識や神秘体験(癒し、異言、預言)に偏重しすぎているきらいがあったようです。それに対して、「それらのものがあっても愛がなければ無に等しい」と警告をしていました。今ある知識や神秘体験というのは、完全な知識と神経験が現れる時には廃れてしまうものだからだというのです。それに対して、愛は、知識や神秘体験にまさる大いなる御霊の賜物です。「本当の豊かさとは与えることである」とマザー・テレサは言いました。愛の業において豊かになることこそ、本当の豊かさなのです。

253

ダビデは心に思った。「このままではいつかサウルの手にかかるにちがいない」

(旧約聖書『サムエル記上』27章1節から)
 このままではいつか・・・将来を考えて、暗澹たる思いに沈むことがあります。ダビデもそうでした。しかし、その怖れや不安は杞憂に終わります。神様が約束されたとおり、ダビデはちゃんとイスラエルの王となりました。如何なる試練が襲っても、神様の約束が実現に向かって進みます。神様に敵するものはひとつもありません。ダビデも、それが分かっていれば、心配するのはまったく無駄だと分かったでしょう。そうです、あなたも大丈夫です。今が如何なる時であっても、終わりの勝利は神様の御手にあるのですから。

254

雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。

(『ヨハネによる福音書』10章12節から)
 雇い人は金のためにあなたを養っているに過ぎない。雇い人が心にかけているのはあなたのことではなく、自分の報酬のことである。だから、自分の身が危険にさらされたり、何の利益もないとわかれば、さっさとあなたを置き去りにするだろう。そのような雇い人のもとにしか身の置き所のない羊は何と哀れなことであろうか。彼はいつ棄てられるだろうかと怯えて日々を暮らすのである。この惨めさから救われるためには、あなたは真の羊飼いのものにならなければならない。

255

イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。

(『マタイによる福音書』9章9節から)
人はしばしば眼差しをもって批判し、裁き、冷笑し、憎み、呪います。そんな眼差しに晒され続け、人々に対して固く心を閉ざしていたのがマタイでした。しかし、そのような世間とはまったく違った眼差しをもってマタイが収税所に座っている姿を見つめられた方がいました。それがイエス様の眼差しでした。固く閉ざされた心の扉を揺るがすような神の愛と義の眼差し、そして「わたしに従いなさい」との力強き招き、それがマタイに心の変革を促し、新しい命を生き始める者として立ち上がらせたのです。

256

そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。

(『マタイによる福音書』13章5-6節から)
何事もそつなくこなし、求められていることを素早く会得できる人がいます。他方、余計なことを考えたり、細かなことに拘ってしまうため、物事を遠回りをしてしまう人もいることでしょう。聖書を読む人もそうです。疑ったり、迷ったり、斜に眺めたり、なかなか聖書の言葉をすんなりと受け入れられない人がいます。それでいいのです。その分だけ深みのある魂を得るのですから。神様があなたに求めておられるのは「すぐに芽を出す」ことではありません。深みをもった人間になることなのです。

257

良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。

(『ヤコブの手紙』1章17節から)
イエス様は「人間の心から、悪い思いが出て来るからである」(マルコ7:21)と言われました。人間の内部から出てくるものは、どんなに美しく装われていても、暗く濁った衝動や欲望の生み出すものに過ぎません。人間の思いから出てくるものである限り、愛や正義であっても同じことです。それは人間の利己的な欲望が体裁よく現れたもの、愛のようなもの、正義のようなものであり、真実の愛や正義に成りえないのです。すべて良いものは、人間のうちからではなく、神様から贈り物として与えられるとみ言葉は教えています。

258

あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。

(『ルカによる福音書』1章20節から)
 神様の言を信じなかったザカリアは、しばしの沈黙を課せられました。沈黙にも多々あります。何かを隠そうとする沈黙、自信のなさの表出である沈黙、自尊心や意固地からくる沈黙、意地悪な沈黙。このような沈黙は饒舌と大差ありません。口だけではなく耳も塞ぎ、誰の言葉も聞き入れようとしないからです。しかし、相手に聞こうとする沈黙、言葉に尽くせないものへの謙虚さからくる沈黙。神様の言葉は、しばしばそのような自らの静まりとしての沈黙をもって聞かれることを私たちに求めます。

259

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。

(『マタイによる福音書』6章33節から)
 日々の糧を備えるのは私たちの労働でしょうか? 健康を支えるのは私たちの思い煩いでしょうか? 美しさで装うために必要なのは絢爛な宝飾品でしょうか? そうではなく、天の父なる神様でいらっしゃいます。イエス様は、父なる神様との和解を私たちに与え、すべて善きものを父なる神様から受け取ることができるようにしてくださいました。イエス様が神の国をお与えくださるとは、そういうことでありましょう。だから、思い煩うことをやめ神の国を求めなさいと、イエス様は言われるのです。

260

わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。

(『フィリピの信徒への手紙』1章21節から)
 人生は自分のものであり、自分の足で思うままに歩き回ることができる、またそうすべきだと信じている人が多いと思います。しかし、「イエスは主である」と告白する人は、自分ではなくイエス様を人生の主人として生きるのです。自分が空しくされるという意味では、それは自分の死とも言えますが、イエス様がどういう御方であるかを知ればその死が、私たちの喜ばしくも新しい人生の始まりでもあることを知るでしょう。神の愛と恵みをもって、イエス様が私たちの中に生きてくださるのです。

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