261

主の手がわたしの上に臨んだ。

(『エゼキエル書』37章1節から)
 あなたの人生に介入し、あなたを導こうとする主の御手があります。それが思いがけない苦難であっても、御手の中にはあなたへの愛が隠されています。あなたの人生を主の手に委ねてみましょう。三浦綾子さんは書いています。「過去はいいのです。今からの一歩を、あなたもキリストの愛の手に導かれて歩みたいとお思いになりませんか。そして、あなたの人生を喜びに溢れた人生に変えたいとは、お思いになりませんか。そのことが、あなた自身にどんなにむずかしく見えても、神が助けてくださるのです」(『光あるうちに』)。

262

弟子たちの間で、自分たちのうちだれがいちばん偉いかという議論が起きた。

(『ルカによる福音書』9章46節から)
 意志の強い人と弱い人がいます。交わりを作り出す人と孤独を愛する人がいます。自信過剰な人と謙遜な人がいます。誰が偉いのでしょうか? 意志の強い人は自信過剰で他者を裁きがちなところがあるかもしれません。交わりを作り出す人はそうでない人をはずかしめているかもしれません。謙遜な人は積極的に責任を担うことをいやがるかもしれません。誰が偉いのかという議論は実に不毛なことです。

263

わたしは日々死んでいます。

(『コリントの信徒への手紙一』15章31節から)
 シスターで教育者でもある渡辺和子さんは、小さな我慢をしなければならないとき、心のなかで「リトル・デス」(小さな死)とつぶやくそうです。会いたくない人に会わなければいけない。やりたくない仕事をしなければならない。相手の無礼な態度を我慢しなければならない。いじわるな人に親切にしなければならない。そんなときに私たちは自分のなかに頭をもたげてくる利己心に死ななければなりません。自分の生活の中でこのような小さな死を積極的に選び取ることが、周囲の人や出来事に引き摺られないで、自分らしく生きる秘訣なのです。

264

神に背いた者たち、世の友となることが、神の敵となることだとは知らないのか。世の友になりたいと願う人はだれでも、神の敵になるのです。

(『ヤコブの手紙』4章4節)
 神様は御子を賜うほどに世を愛してくださいました。この世は、神様に愛されている世界なのです。しかし、私たちが世に親しみ、世を慕うとき、神様に敵する者となってしまうことがあります。それは、私たちの世に対する愛が、しばしば神様の世に対する愛を否定してしまう時に起こるのです。たとえば、神様が愛をもってあなたに悔い改めを求めるとき、自分や世に対する愛ゆえにそれを拒絶してしまうことがあります。それは愛ではなく執着です。クリスチャンがこの世を愛し、自分を愛することは良いことです。しかし、かならず神様の愛をもって愛さなければなりません。

265

わたしたちが労苦し、奮闘するのは、すべての人、特に信じる人々の救い主である生ける神に希望を置いているからです。

(『テモテへの手紙1』4章10節)
 イエス様は、私たち信じる者の救い主であることはもちろんのこと、それ以外の《すべての人》の救い主でもあられます。私たちはイエス様を信じようとしない人々に対して、かならずこの希望を持ち続けなければなりません。この希望をもって、わたしたちが世を愛し、奮闘、努力をすることを、神様は願っておられます。私たちがこの希望を持って、どんな人に対しても神の愛を語り続けることが、神を信じないこの世の唯一の希望だからです。クリスマスが近づく今、この希望を新たにし、すべての人の救い主が来てくださったことを、神の愛をもって宣べ伝えようではありませんか。

266

わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。

(『マタイによる福音書』7章21節)
 イエス様を「主よ、主よ」と呼ぶことは正しいことです。良いことです。「イエスは主なり」とは、信仰告白の中核であると言ってもいいでしょう。しかし、正しい信仰告白する者が皆、天国に入るのではないというイエス様の御言葉をよくわきまえなければなりません。信仰告白を「言う者」ではなく、「行う者」が天国に入るのです。自らを命を誇るような行いではありません。ただイエス様の恵みによってあるということが明らかにされるような貧しい命を、喜びと感謝をもって生きることが、私たちの行いです。これこそ神様の御心で在り、私たちの真の信仰告白だと言っても良いでしょう。

267

かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』

(『マタイによる福音書』7章22〜23節)
 「主よ、主よ」と言うだけではなく、行う者になりなさいと言われたイエス様は、つづけて御名による行いを誇る者たちに対する厳しい言葉が語れています。いったい、イエス様はわたしたちにどのようにあれと言われるのでしょうか。心に留めたいのは、《あなたたちのことは全然知らない》と言われたイエス様の御言葉です。どんな立派な告白も、どんな立派な行いも、イエス様に《知らない》と言われてしまったら意味がありません。「わたしはあなたを知っている」と、イエス様に言っていただけることだけが、わたしたちの救いの要とする福音信仰に生きることが大事なのです。

268 福音を宣べ伝えよ

それからイエスは言われた。「全世界に行って、すべて造られたものに福音を宣べ伝えなさい。

(『マルコによる福音書』第16章15節)
 《世界》は社会的価値を善悪の基準とし、《すべて造られたもの》は自己評価を善悪の基準としています。それによって裁き合い、憎しみ合い、隣人や自分を虐げています。しかし、《福音》はキリストの御目から見た世界、隣人、自己について教えます。それは愛と慈しみに溢れています。そこに慰めがあり、希望があり、救いがあるのです。教会が、そしてキリスト者ひとりひとりが、宣べ伝え、証しすることは、この《福音》であって、それ以外のものではありません。

269 イエスのまなざし

イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。

(『マタイによる福音書』第9章9節)
 マタイは収税所に座っていました。きっと何年も、そこに座って自分の仕事をしていたに違いありません。彼がいったいどんな気持ちで、毎日そこに座っていたのか、そんなことは一言も記されていません。けれども、イエス様は通りかがりにその姿をごらんになったとき、マタイのすべてを知って下さいました。そして、あなたの居るべき場所はここではない、わたしに従いなさいと呼びかけてくださったのです。イエス様のまなざしにマタイは救われ、本当の自分を取り戻しました。

270 洗礼者ヨハネの証し

ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった。

(『ヨハネによる福音書』第10章41節)
 洗礼者ヨハネは、モーセのように奇跡を行ったわけでもなく、ソロモンのように偉大な知恵を語ったわけでもなく、ネヘミヤのように国家の大事業を成し遂げたわけでもありません。彼がしたことは、イエス様について本当のことを知り、それを語ったということです。それのみでした。しかし、イエス様は「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった」(マタイ11:11)と言われます。私たちも、イエス様の恵みを知る者です。はばかることなくそれを語りましょう。それこそ神様の偉大な御業にあずかることなのです。

271 弱さや貧しさもキリストの賜物

キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。

(『コリントの信徒への手紙二』12章9節 )
 体でも心でも弱さがあることは辛いことです。しかし、パウロは自分に弱さがあることを喜ぶと言うのです。彼の弱さは、何か終生負わなくてはいけない病のことであったようです。「それさえなれば」と、彼は一生懸命に願いました。ところが逆に、この弱さがあるからこそ、自分はイエス様の素晴らしい愛を知り、イエス様と共に生きる者とされているのだということに気づかされるのです。だから彼は、この弱さが私には大切だ、この弱さが喜びの根源だ、とまで言うのです。弱さがあるからこそ、気づかされる愛があります。弱さがあるからこそ、与えられる喜びがあります。

272 いかなる時にも

だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。

(『ローマの信徒への手紙』第8章35節 )
 健康や仕事、家族を含む人間関係など、わたしたちの生活には悩ましいこと、苦しいことが絶えません。そういう生活の救いを求めて祈ることは当然のことです。けれども、自分の願いどおりにならないと、信仰生活の熱意を失ってしまう人がいないでしょうか。神様が、私たちの問題に対して、私たちとまったく別のご計画をお持ちであることはしばしばあることです。たとえそれを知らなくても、イエス様の十字架によって示された神様の愛は、私たちがいかなる時にも神様と共に生きる者とする力があります。十字架を仰ぎましょう。

273 内に働く御言葉

事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。

(『テサロニケの信徒への手紙一』第2章13節 )
 聖書は、神様の御言葉です。御言葉によって天地は造られました。御言葉は、無から有を生じさせ、混沌に秩序を与え、暗黒に光を射し込みます。同じように、私たちがどんなに力なきもの、価値なきもの、たとえ生ける屍のようであっても、御言葉を聞くならば、神様の全能の御力が、わたしたちの内に働きます。御言葉は、私たちに神様、真理、御心を教えるだけのものではありません。それを信じる私たちの内側に働いて、私たちを神様を見る者、真理に生きる者、御心を行う者として新しく生まれ変わらせる力があるのです。

274 御言葉に従う

しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。

(『ヨハネによる福音書』第2章5節 )
 母マリアは、イエス様の御言葉のどんなひと言にも神様の御心に添うた意味があり、目的があることを信じていました。たとえ、その意味を解せず、戸惑うばかりであっても、その御言葉が守られ、イエス様の御心が成し遂げられることが、神様の栄光となり、自分を救うことであると信じていました。そのために、自分はもちろんのこと、すべての人によって、御言葉が尊ばれ、それが守られ、実行されることを願ったのです。これこそ私たちが聖書を読む時に、ぜひとも覚えなければならない信仰です。

275 神との平和

このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、

(『ローマの信徒への手紙』第5章1節 )
 神との平和! それは神様に対する私たちの戦いが終わったことを意味します。もとより神様に勝てるはずもない私たちは、それでも神様に反抗し続けてきました。神様を退け、虚仮にし、自分を王にし、戦いを挑んできました。それゆえに、私たちはいつも苦々しい敗北の痛痒を味わされてきたのです。人生の惨めさ、悔しさ、挫折、不安、恐れ、空虚さ・・・それは、どんなに足掻いても私たちは神様には勝てないことの証しでありました。イエス様によって与えられる信仰のみが、この惨めな戦いを終わらせ、私たちに平和をもたらしてくれるのです。

276 大胆に近づけ

しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかった・・・

(『マルコによる福音書』第2章4節 )
 四人は、中風に悩むひとりの友を連れて、イエス様を訪ねます。彼らはイエス様を取り巻く群衆の中で、遠巻きにイエス様にお会いしますが、それに飽き足らず、さらに主に近づき、その御前に進み出たいという強い願いを持ちました。しかし、それは極めて困難なことでした。これは、教会の会衆のひとりとなった人が、さらに深い主との交わりの中に入ろうとする時の困難にも似ています。この困難を乗り越えて、さらに主の御前に進み出るためには、どうすればいいのか。聖書を読んでみましょう。彼らがとった非常識なまでに大胆な行動に、私たちも学ぶ必要があると思います。

277 神に明け渡す

わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。

(『マタイによる福音書』第21章13節 )
 神殿が貪欲な者たちの欲しいままにむさぼる場所となっているのをごらんになって、イエス様は激しく憤られました。教会はどうでしょうか。聖霊の宮である私たちの魂はどうでしょうか。「神の家」は、何よりも神様にとって安住できる場所でなければなりません。神様がそこを自分の居場所として喜び、楽しみ、安らかなところでなければなりません。そのために必要なものは、神殿の大きさでも、広さでも、頑丈さでもないでしょう。神様を神様として愛し、慕い、崇める信仰が、そこに満ちていることが必要なのです。悔い改めて、自分を神様に明け渡しましょう。

278 主を、主と認められない弟子たち

イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」

(『マタイによる福音書』第14章27節 )
 夜の闇に包まれた湖の真ん中で、逆風に悩まされていた弟子たちは、よほど心細かったのでありましょう。彼らを救わんと近づいてくるイエス様を、幽霊だと思い、恐怖の叫びをあげました。イエス様であるのに、イエス様だと認められないことは、なんと不幸なことでありましょう。闇に惑い、逆風に悩むあなたの人生の中に、イエス様がおられないのではありません。いつも共にいてくださるのは、イエス様の約束です。あなたが恐れているものこそ、実はイエス様であるかもしれません。「安心しなさい」と語りかけて下さるイエス様の声が聞こえるまで、御言葉に耳を傾けましょう。

279 静かにする

お前たちは、立ち帰って静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある。

(『イザヤ書』第30章15節 )
 人生に何事か困ったことが起こる時、あまり騒ぎすぎないようにしなさいと教えられています。そのような時にこそ神様をしっかりと見て、揺らぐことのない大安心の中に生かされることを感謝することが大切なのです。なぜなら、恐れ、不安、焦り、心配といった心の雑音によって、神様が見えなくなってしまうことがあるからです。心を落ち着け、静かな心で神に祈り、御言葉に耳を傾けましょう。神様があなたと共におられます。その大安心を知るところから、困難を乗り越えていくあなたの力が生まれてくるのです。

280 キリストの愛を信じる

神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。

(『ローマの信徒への手紙』第15章7節 )
 信者といえども、人間的には気まぐれで、利己的で、思慮に欠けている場合が少なくありません。そのような人を兄弟姉妹として愛することに困難を覚えることもありましょう。しかし、私たちは主の愛の奇跡によって救われたのですから、どんなに人も愛によって救われ、清められることを信じなくてはなりません。この世は愛の力を信じません。それは、この世の愛には信じるに足る愛がないからです。しかし、私たちは主の愛があります。その愛は、与えれば与えるほど豊かで大きなものに成長することでしょう。

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