301 祈りは聴かれている

ダニエルよ、恐れることはない。神の前に心を尽くして苦行し、神意を知ろうとし始めたその最初の日から、お前の言葉は聞き入れられており、お前の言葉のためにわたしは来た。

(『ダニエル書』第10章12節)
 ダニエルは、御心が示されず、三週間、苦しみ、嘆き、苦行のような祈りを続けていました。何も楽しむことができなくなり、気力は失せ、言いしれぬ恐怖が襲い、どうして神は祈りを聴いて下さらないのかと孤独に苛まされる日々であったに違いありません。しかし、天使が来て、あなたの祈りは、祈り始めたその日から天に届いていた、と励まします。祈りが聴かれず、御心が分からなくなってしまうときにも、あなたの祈りは聴かれているのです。そして、かならず答えられる日がきます。恐れず、祈り続けましょう。

302 歩まれるイエス

イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、

(『マタイによる福音書』第4章18節)
 いまの時代、自転車や車、あるいは電車にのって移動することがあっても、長い道を歩くことは、とても少なくなっています。しかし、イエス様は、いつも歩かれました。足を埃にまみれさせて、歩かれたからこそ、生活に疲れ切った労働者に、病める人に、道端に坐す物乞いに、体の不自由な人に、いろいろな人々に出会われました。目的地にたどり着くことも大事ですが、その道のりにも見落としてはならないものが、たくさんあります。イエス様は、その前を、脇目もふらず通り過ぎたりはなさいません。かならず目を留め、足を止め、声をかけ、愛をもってひとりひとりに関わりながら、十字架の道を歩まれたのです。

303 歩まれるイエス

話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。

(『ルカによる福音書』第24章15節)
 イエス様の死に落胆した二人の弟子が、道を歩いていました。話すことといえば、繰り返しイエス様の話ばかりでした。しかし、それは信仰を燃え立たせる景気のいい話ではなく、消えていく火を最後の瞬間まで名残惜しむような淋しい話です。たとえそうであったとしても、イエス様ご自身のことが語られているところに、イエス様は近づいてくださり、歩みを共にしてくださいます。そして、いつの間にか議論の主導権を握ってくださり、消えかかった火を、ふたたび燃え立たせてくださるのです。

304 神を見て祈る

ですから、皆さん、元気を出しなさい。わたしは神を信じています。わたしに告げられたことは、そのとおりになります。

(『使徒言行録』第27章25節)
 船は深い霧に包まれた。ジョージ・ミュラーは船長に言った。「土曜の午後までケベックに着く約束なのですが」船長は、「とても無理です」と答えた。するとミュラーは「では、祈りましょう。私の目は濃い霧を見ていません。私の生涯のすべての事情を支配して下さる神を見ているのです」と答え、ひざまずいて祈った。霧は晴れ、ミュラーは約束通りにケベックに着いた。信じない者は目の前の障害物を見て絶望するが、信じる者はすべてを治め給う神を見て、祈るのである。

305 信仰をささげる

「それをここに持ってきなさい」

(『マタイによる福音書』第14章18節)
 5000人を越える会衆の必要を満たすのに、五つのパンと二匹の魚は、何の役にも立たないかのように思います。同じような絶望を、私たちも味わっています。自分など何の役に立つのか。こんなことをしても無意味ではないか。そのような逡巡を断ち切り、御言葉に身を委ねようではありませんか。「それをここに持ってきなさい」と、主は言われます。主が求めておられることは、私たちの力ではなく、信仰なのです。信仰をもって、私たちの賜物を御手に委ねましょう。かならず主は、それを受け取り、神の新しい祝福の源泉としてくださるとを信じ、献げ物をし、奉仕をしましょう。

306 終末的に生きる

万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。

(『ペトロの手紙1』第4章7節)
 万物には終わりがあります。その事を弁えて生きることが、ほんとうの思慮深さです。大切なことは、万物が終わらせるのは、神様の御業であるということです。神様がはじめられた世界を、神様が終わらせるのです。それは単なる終わりや消滅ではありません。世界に対する御計画の成就であり、完成です。御言葉は、万物の終わりの日を思慮深く生きるとは、この世のことで騒々しく生きることをやめ、この世に対する御心を遂げ給う神様を静かに信頼し、日々、神様との交わりのなかに身を置いて、祈りの生活をおくることだと教えています。

307 神の目的に生きる

わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。

(『エフェソの信徒への手紙』第2章10節)
 私たちが救われたのは、幸福になるためではありません。平和な日々を過ごすためではありません。幸せも、平和も、私たちに与えられるでしょう。しかし、それが目的ではないのです。神様が、私たちの罪を赦し、新しいいのちを与えてくださったのは、良い業を行うためです。良い業とは、神様が、私たちのためにあらかじめ備えてくださった人生の目的です。苦労があるとも、それを生きてこそ、自分のほんとうの命を生きることができるのです。

308 神の愛を受け取ろう

わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。

(『ローマの信徒への手紙』第8章32節)
 神様は、そのひとり子を賜うほどに、私たちを愛してくださいました。この神様の愛は、私たちのすべての罪を覆ってくださいます。そして、主が話された放蕩息子の話のように、父親から着物や履き物を与えられ、子として印である指輪をはめてもらったのと同じように、私たちが神の子たちとして生活することを可能としてくれるのです。ですから、父なき者のように恐れと不安の中に佇んでいてはなりません。神の子たちよ、感謝と讃美をもって、父の愛と贈り物を受け取り、自分自身のものにしようではありませんか。

309 正しい方と共にいること

たといサタンの手下どもが、義の奉仕者のように擬装したとしても、不思議ではない。彼らの最期は、そのしわざに合ったものとなろう。

(『コリントの信徒への手紙二』第11章15節)
 イエス様を憎む者が、この世的な知恵で語ったことが、たまたま正鵠を射たものであることがあります。逆に、イエス様を愛する者が、自らの弱さのゆえに、的外れなことを語ることがあります。しかし、間違ってはいけません。そのようなときにも、イエス様を憎む者が正しい者とされ、イエス様を愛する者が偽り者とされることはありません。肝心なことは、正しい行いや言葉ではなく、正しい方と共にいることだからです。人が義とされるのは、イエス様を救い主信じる信仰によるのです。

310 信仰は絵に描いた餅ではない

イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。

(『ヨハネによる福音書』第6章53節)
 イエス様への信仰は、絵に描いた餅を眺めることではありません。食べることができ、飲むことができるものです。思想ではなく、経験です。論理ではなく、実質です。理想ではなく、現実です。イエス様は、ご自分を、まことの食べ物、まことの飲み物として、私たちにお与えになっております。イエス様は、私たちの日用の糧です。生活の副菜ではなく、主食です。それを受け取るためにこそ、私たちは礼拝を守り、御言葉を聞き、聖餐に与り、日々の祈りをもって始め、一日中を御教えに生きるよう努めるのです。

311 神様、今日もよろしくお願いします

野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。

(『マタイによる福音書』第6章28節)
 私たちの日々のいのちをつくるのは、思い煩いでも、労働でもなく、天の父なる神様です。鳥や、花は、人間のように思い煩うことはありません。日々、神様が与えてくださるものを受け取り、それによって生きているのです。人間が思い煩うのは、神様なしに、自分の知恵と力で生きようとするからです。なぜ、神様に期待しようとしないのでしょうか。神様の愛を知らないからです。神様は、鳥や花ばかりではなく、私たちのいのちに心をかけ、その必要を与えてようととしてくださっています。「神様、今日もよろしくお願いします」と言って、一日を始めようではありませんか。

312 神われらと共にいます

「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。

(『マタイによる福音書』第1章23節)
 イエス様は、人々の批判も称賛も気になさらず、そのようなものに左右されなず、ただ天の父の御心だけを思い、それに従うように生きられました。それにもかかわらず、イエス様のご生涯は、あらゆる人と共にありました。イエス様ほど人の思いを知り、共感し、寄り添われた方はありませんでした。イエス様は、私たちの愛に頼ることなく、天の父なる神様に愛をご自身の愛として、人を愛してくださるのです。ですから、イエス様はインマヌエル、「神われらと共にいます」と呼ばれたのでした。

313 他者と共に生きる

愛を身につけなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。

(『コロサイの信徒への手紙』第3章14節)
 夢の実現であれ、病の癒やしであれ、願いが叶うことを信じ、希望をもって生きることは、いのちを力づけます。しかし、願いにしがみつき過ぎると、周囲に無関心な人となり、その人の存在は他の人々には無に等しくなります。最悪の場合、害にさえなります。他の人々に嫉妬し、邪魔者扱いし、敵愾心さえもってしまうからです。逆に、たとえ願いが叶わなくとも、あるいは犠牲にしても、人々に愛され、大切にされ、幸せに生きることがあるのです。ひとを愛することを身につけましょう。私たちは、いつも人々と共に生きているのです。

314 罪に対して死んでいる

罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。

(『ローマの信徒への手紙』第6章2節)
 世は、「罪を犯してはならない」と言います。神の律法も、「罪を犯してはならない」と語ります。しかし、福音は、「あなたは罪に対して死んだ」と告げます。イエス様が、私たちのすべての罪をたずさえて、墓にまで降られたからです。私たちは、もはや罪の中に生きることができないのです。しかし、実際は、なお罪の中にいるのではないでしょうか。そうです。罪の中にありながら、しかし罪に向かってではなく、神に向かって生きているのです。それを信じることがゆるされているのです。ここに福音があります。

315 感謝を忘れずに

この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。

(『ルカによる福音書』第17章18節)
 恵みの御座にぬかずいて、「父、助けてください」と祈ることができるのは、神の子らの特権です。しかし、同じくらい大切なことは、感謝の祈りを捧げることです。私たちに、なお必要なものがあり、御父の助けが必要であるとしても、すでに与えられている多くの恵みに対して、感謝なく過ごしていいはずがありません。たとえどんな苦難のなかにあっても、私たちは、昼も夜も、御父の慈愛を受けています。その恵みを数え、思い起こし、感謝に溢れるならば、御父の愛に対する確信をもって、さらなる必要について願い求めることもできるようになるのです。

316 共に集められる恵み

見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。

(『詩編』第133章1節)
 私たちが、日曜日の礼拝に集い、教会という聖徒の交わりに生きていることを、目に見える形で味わうことができるのは、けっして当たり前のことではありません。イエス様を愛し、神様を讃美していても、礼拝に集うことがゆるされないような生活の状況が、私たちにも起こり得るのです。病気、障害、家族の介護、職業の事情、あるいは通い得るところに教会がないとこともあり得ます。だからこそ、御言葉と聖餐のもとに、共に集められる神の恵みを疎かにしてはなりません。感謝と喜びをもって、毎週の礼拝に集いたいものです。

317 立ち帰れ(宗教改革記念日)

しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。

(『ヨハネの黙示録』第2章4〜5節)
 10月31日といえば「ハロウィン!」という人も増えてきましたが、私たちプロテスタント教会では宗教改革記念日として覚えられています。宗教改革は、言ってみれば教会の悔い改めです。教会は、悔い改めを求めるだけではなく、自ら悔い改める必要がある、《悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ》、これがプロテスタント教会の原点なのです。《初めのころ行いに立ち戻れ》といわれています。教会の働きが、《初めのころの愛》に根ざしたものとなっているかどうか、いつも御言葉によって立ち帰る教会でありたいと願います。

318 みんな闇のなかに生きている

さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。

(『ヨハネによる福音書』第9章1節)
 イエス様がごらんになったら、私たちはみな、《生まれつき目の見えない人》であるかもしれません。私たちの目には、私たちに注がれている天の父の愛も、私たちを取り囲んでいる救い主の恵みも見えないからです。私たちは闇のなかに生まれ、闇のなかに生きています。もし、見えるようになったならば、私たちの世界も、人生も、一変するに違いありません。しかし、私たちが見えないのは、生まれつきです。見えるようになるために、神様の憐れみと奇跡が必要なのです。

319 新しく造られる

キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。

(『コリントの信徒への手紙二』第5章17節)
 クリスチャンは、新しく創造された者です。かつてニコデモが主に問うたように、人が新しく生まれるということは、にわかに信じがたいことかもしれません。しかし、これは、三位一体の神の奇跡なのです。イエス・キリストの罪のゆるし、天の父の創造の力、聖霊の潔めの力、このような神の働きによって、私たちに信仰が与えられ、愛が与えられ、希望が与えられます。そして、神様も、隣人も、自分自身も、すべてを愛することができるようになります。すべてを愛することができるのですから、すべてを喜び、感謝することができるようになります。クリスチャンになるとは、なんと尊く、不思議なことでありましょうか。

320 聖霊の証し

神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます。

(『使徒言行録』第5章32節)
 聖書を読み、聞き、学べば、イエス様が救い主であることを、あらゆる章句によって知ることができます。しかし、それは遠い世界の物語であって、私たちの現実ではない、という声があります。目で見たり、手で触れたり、心に迫ったり、実際、私たちの生き方が揺り動かされるような現実として、イエス様が救い主であると知るためには、聖霊が必要なのです。神様は従う者に、聖霊を与えてくださいます。まず、信じて従ってみることです。そうすれば、聖霊が、御言葉が真実であることを、証明してくださいます。

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