061

あなたの重荷を主に委ねよ。主はあなたを支えてくださる

(旧約聖書『詩編』55章23節から)
 徳川家康は「人の一生は重荷を負うて、遠き道を行くがごとし」と言いました。世の中には何の問題もなく生きている人はいません。誰でも色々な難しい問題を抱えて人生を生きているのです。たとえクリスチャンとなっても、そういう問題が人生から消えてなくなることはありません。しかし、どんな重荷も祈りつつ負うことができる人間になることはできます。私たちの神様は、「あなたの重荷をわたしに任せよ」「わたしがあなたを支えている」と言ってくだっているからです。

062

わたしには、すべてのことが許されている。しかし、わたしは何事にも支配されない。

(新約聖書『コリントの信徒への手紙1』6章12節から)
 クリスチャンとは酒やたばこ、着飾ることや贅沢など、「生活の楽しみ」を捨て、善人顔をして窮屈な生活をする真面目くさった人種だと勘違いする人がいます。大きな誤解です。クリスチャンとは今まで以上に解放感や喜びに満ちた生活をする人なのです。但し、楽しいと思っていたことが空しく思えたり、苦しいと思えていたことも楽しく思えたりすることはあります。それは努力ではなく神の御業、つまりイエス様が私たちを新しくしてくださることによって、そのような心の変化を経験するのです。

063

わたしは疲れた魂を潤し、衰えた魂に力を満たす。

(旧約聖書『エレミヤ書』31章25節から)
 現代人は便利で、豊かで、安全で、不自由のない生活をしています。それにも関わらず、悩み、迷い、思い煩い、失望している人が多いのはどうしたことでしょうか。人々の魂は傷つき、疲れ切り、渇き、力を失っています。イエス様は「人の命は財産によってどうすることもできない」(ルカ12:15)と言われました。物質的な豊かさを追い求めるだけでは本当に豊かな人間になることはできないのです。神の前に豊かになることを追い求めようではありませんか。

064

人の子らを苦しめることがあっても、それが御心なのではない。

(旧約聖書『哀歌』3章33節から)
 神様を信じると金持ちになるかというと、そうでもありません。病気にならないかというと、そんなこともありません。では何のために神様を信じるのでしょうか? 神様を信じるのは神様が神でいますからです。自分の利益になるとかならないとか、そんなことではないのです。しかし、それにも関わらず、神様は必ず私たちの利益となって下さいます。たとえ苦しみを経験しても、苦しめること自体が神様の目的なのではありません。その苦しみを通してより大きな幸せへと私たちを導いてくださるのです。

065

風向きを気にすれば種は蒔けない。雲行きを気にすれば刈り入れはできない。

(旧約聖書『コヘレトの言葉』11章4節から)
 「今日は風が強いから」「雲行きが怪しいから」と手をこまねいていても人生は思い通りに流れません。そんなことでは種蒔きもできず、刈り入れもできず、結局何もしないで終わってしまうと、神様は警告しているのです。「日々これ好日」と言われるではありませんか。手をこまねいて好い日が来るのを待つのではなく、どんな日にも種を蒔き、どんな日にも刈り入れをして、今日という日を好い日にしましょう。神様と共に働けば、どんな日もすばらしいチャンスに満ちています。すべてを善に変えてくださる神様の祝福の力を信じましょう。

066

わたしは・・・季節に従って雨を降らせる。それは祝福の雨となる。

(旧約聖書『エゼキエル書』34章26節から)
 人生にも、丁度、今頃のように、晴れることのない雨雲が心を覆い続ける日が何日も続く時もあります。そんな時には、誰でも気が滅入ってしまうものです。けれども、梅雨に雨が降らなければ深刻な水不足が私たちを悩ますことになります。農作物の収穫にも影響が及びます。自然界においては、神様が季節ごとに雨を降らせることはとても大切な事なのです。同じように、神様は私たちの人生にも季節の雨を降らせてくださることにも意味があります。それは当座は喜ばしいものでなくても、必ずあなたへの祝福に変わるだろうと、聖書は約束しているのです。

067

父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる・・・。

(新約聖書『マタイによる福音書』5章45節から)
 これは、神様は悪人も善人もまったく同じように取り扱っておられるということでありません。神様は悪人に対してもチャンスを与えてくださっているのです。いつか自分の罪と愚かさを悟った日に、悔い改めて神の子として立ち帰ることができるためのチャンスです。このような神様の忍耐強さなくして、私たちはいかにして神の子であり続けることができるでしょうか。けれども、このチャンスにはタイムリミットがあります。時があるうちに悔い改めて立ち帰る者になりましょう。さもなくば、神の恐ろしい裁きを免れることはできません。

068

夕べがあり、朝があった。

(旧約聖書『創世記』 1章5節から)
 どんなに輝かしい朝を迎えても、結局は暗い夜のうちに一日が終わるというのでは、なんだか寂しいと思いませんか。聖書は、「夕べがあり、朝があった」と言いました。暗さの中で朝の光を待ち望むことから一日が始まり、やがて美しい朝の光が暗闇をうち破って射し込んでくる。それが私たちの一日であり、人生であり、またこの世界の歴史であるというのが、聖書の主張なのです。なんと希望に満ちた歴史観でしょうか!

069

あなたがたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。

(新約聖書『テモテへの手紙U』 1章14節から)
 「今日の気分は最高!」とか、「今日の気分は最低!」とか、そんな風に気分によって他人を振り回したり、神に委ねだれているあなたの人生や賜物を損なったりしていないでしょうか。気分や感情をコントロールするのは確かに難しいことです。しかし、あなたではなくイエス様が、あなたの中に生きる方となってくださるならば、それが出来るのです。イエス様が聖霊によってあなたの心に住んでくださるように祈りましょう。わがままな気分の犠牲者としてではなく、イエス様の変わることのない目的のために生きる者になりましょう。

070

「平和があるように」と挨拶しなさい。

(新約聖書『マタイによる福音書』10章12節から)
 「平和があるように」というのは、ユダヤ人の挨拶の言葉でシャロームといいます。しかし、イエス様は特別な言葉で挨拶をしなさいと言われたのではありません。日常的な挨拶の言葉であっても、心を込めてかわし合いなさいということなのです。およそ挨拶というのは、どこの世界の言葉であっても相手の祝福や幸せを祈る言葉です。顔を合わすたびに、相手の祝福、幸せを祈り合うというのが、挨拶なのです。口先だけの挨拶に、少しでも祈りの心を込めることができたら、本当に平和な世界がくるかも知れません。

071

わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。

(新約聖書『ヨハネによる福音書』6章37節から)
  人を信じて痛い目に遭った方はおられませんか? しかし、人を恨む前に、あなた自身もまた人の期待に100パーセント応えられる人間ではないことを忘れないでください。結局、あなたは人間に過ぎない者に対して多くを期待しすぎたのです。しかし、イエス様は、自分のところに来る人を決して失望させないと言ってくださいました。イエス様はあなたの期待を裏切らない真実と、愛と、力をもっておられます。本当に信じるに足る唯一の御方です。

072

医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。

(新約聖書『マタイによる福音書』 9章12節から)
 イエス様は、「病める人こそ私のもとに来なさい」と招いておられます。なぜなら、イエス様には体の病、心の病、霊の病、あらゆる病を癒すお力があるからです。ですから、体を病む者も、心を病む者も、そして霊の病(=罪)に悩む者も、イエス様のもとに静かにひざまずいて、「どうぞ、私を癒してください」と祈ろうではありませんか。イエス様の癒しの力にあずかり、新しい命によって霊肉の健康を回復していただきましょう。

073

何事も愛をもって行いなさい。

(新約聖書『コリントの信徒への手紙1』16章14節から)
 クリスチャンは、神様のご恩を忘れては生きてはいけません。私たちが今日あるのはすべて、神様がひとり子の命をも惜しまず、私たちを愛してくださったお陰なのです。ですから、私たちには何の誇りもありません。神様のご恩があるだけなのです。そのことを考えれば、人を見下したり、罪に定めたり、意地悪くするのは間違ったことだと分かるでしょう。神様から受けた愛の何百分の一であっても、人に親切にし、人の罪を赦し、愛をもって生きるべきなのです。

074

あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。

(新約聖書『ルカによる福音書』12章7節から)
 神様は一羽の小さな雀の命も、野に咲く花の命も大切にしてくださり、愛しておられます。ましてみなさんは神の子供らとして特別に神に創られた存在なのですから、みなさんの命については創造主なる神様が髪の毛一本にいたるまで慈しんでくださっていると、イエス様は教えてくださいました。みなさんには、その神様の愛が見えるでしょうか。それが見えてくるならば、あなたは本当に大きな安心に包まれ、毎日をあらゆる思い煩いから解放されて、喜ばしく生きることができるようになるでしょう。

075

人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。

(新約聖書『ルカによる福音書』 21編26節から)
 連日、新聞には私たちの不安をかき立てるようなニュースがいっぱいです。戦争、テロ、大地震の予測、凶作、倒産、リストラ、連続通り魔事件、人質事件、工場大火災・・・。内閣府発表によると、国民の67.2%が日常生活で不安や悩みを感じているという結果ができました。「時の徴」を感じます。しかし、イエス様は「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭をあげなさい。あなたがたの解放の時は近いからだ」(ルカ21:28)と言われました。ここに多くの希望があります。私たちは何が起こっても気をしっかりもって、頭を上げ、天から雲にのっておいでになる主をお迎えするのです。

076

高慢には軽蔑が伴い、謙遜には知恵が伴う。

(旧約聖書『箴言』 11編2節から)
 傲慢とは神の御業に逆らうことであり、謙遜とは神の御業をありのままに受け入れることです。たとえば自分の思い通りにならない時に腹を立てるのは傲慢なことです。そういう時にも神の御業を認めて、他人や出来事を受け入れることができる人こそ謙遜な人です。また、自分をつまらない人間だと卑下することは謙遜ではなく傲慢です。自分が他人と比べて欠けの多い小さき者であっても、ありのままの自分を神様の御業と思って、思い上がるのでもなく卑下するのでもなく、自分という存在を大切にできる人は謙遜な人です。そのような人にこそ人生の真の知恵が伴うのです。

077

ご覧下さい。手のひらほどの小さい雲が海のかなたからのぼってきます。

(旧約聖書 『列王記上』18章44節)
  預言者エリヤは、干ばつから人々が救われるために、カルメル山で雨が降ることを熱心に祈り求めました。しかし、海の遥か彼方まで雲一つありません。エリヤはもう一度祈りました。やはり雨雲は出てきません。エリヤは三度、四度、五度、六度と祈り続けました。そして七度祈った時です。海のかなたに手のひらほどの小さな雨雲が見えました。その小さな雲はどんどん大きくなり、やがて空は厚い雲に覆われてくらくなり、激しい雨が降り出しました。こうして3年ぶりの雨がイスラエルの大地を潤したのでした。私たちも諦めないで、何度でも祈り続けましょう。

078

富は天に積みなさい。

(新約聖書『マタイによる福音書』 6章20節)
 イエス様は富の所有を否定しているのではありません。富がどこに置かれているかということを問題にされているのです。富は価値あるものです。しかし、その富を金庫や銀行に積んでおくだけであったら、果たしてどれだけの価値があるでしょうか。プール付きの豪邸に住み、外車を乗り回し、自分のために大きなお墓を立てても、果たしてその富はどれだけの価値を発揮したことになるでしょうか。イエス様は、あなたの尊い富を神さまの働き給う所に置きなさいと教えてくださるのです。

079

家は香油の香りでいっぱいになった。

(新約聖書『ヨハネによる福音書』 12章3節)
 ベタニア村のマリアは、非常に高価なナルドの香油を惜しみなくイエス様の御足に注ぎかけました。するとたちまち甘美な香りが小さな家いっぱいに広がりました。それはイエス様に対するマリアの愛と喜びと感謝の香りでもありました。イエス様は、いつも私たちと共におられます。イエス様に一生懸命にご奉仕をして、教会を、あるいは私たちの家を、マリアの家のごとくイエス様への愛と喜びと感謝の香りでいっぱいになるようにいたしましょう。

080

利益もないのに神を敬うでしょうか。

(旧約聖書『ヨブ記』 1章9節)
 サタンは人間の弱さを見抜いています。人は理由もなく神様を信じたりはしない。どんなに立派な信仰者の顔をしていてもちゃんと心の中では計算をしており、信じて得があるから信じるのだと、サタンは神様に訴えたのです。しかし、サタンの意に反して、ヨブは信仰を捨てたりはしませんでした。どんなに奪われても、どんなに失っても、どんなに苦しめられても、「これでは神様を信じている意味がない」などとは言わなかったのです。ヨブが神さまを信じるのは利益になるからではなく、神さまが神さまであるからだったのです。あなたは何故神様を信じていますか?

081

主よ、その人が病の床にあるとき、支え、力を失って伏すとき、立ち直らせてください。

(旧約聖書『詩編』 42編4節から)
 病む(やむ)ことは止む(やむ)ことであると言われます。病が私たちの生活や人生をストップさせてしまうからです。私たちの生活が止んでしまうのは、体の病気によるばかりではありません。悲しみ、絶望、疲労、虚無感といった魂の病気が、しばしば私たちの人生を止ませてしまうことがあります。体の病にしろ、魂の病にしろ、神様は私たちを癒し、再び立ち上がらせ、新しく生きはじめることができる者にしてくださいます。どうぞ、どのような時にも絶望しないで、私たちを支え、歩ませてくださる神様の力を追い求めましょう。

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日本キリスト教団 荒川教会 牧師 国府田祐人 電話/FAX 03-3892-9401 Email: yuto@indigo.plala.or.jp