082

わたしが言ったことがあろうか。「頼む、わたしのためにあなたたちの財産を割いて、苦しめる者の手から救い出し、暴虐な者の手からわたしを贖ってくれ」と。

(旧約聖書『ヨブ記』6章22-23節から)
 大きな苦しみに遭っているヨブのところに、三人の友がお見舞いにきました。彼らは、ヨブのあまりの悲惨さに言葉を失います。さらに、こんな酷い目に遭うからには、ヨブはきっと、とんでもない悪いことをして神様を怒らせたに違いないとさえ思って、ヨブに見当違いな説教を始めたのです。「傷口に塩」とはこういうことでありましょう。ヨブはそんな友達に苛立って、こう言いました。「君たちに、私をこの苦しみから解放してくれとは頼まない。でも、私の苦しみを分かって、心から同情してくれてもいいじゃないか。心の友になって欲しいんだ」。 「本当の友達とは何か」を考えさせられます。

083

わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。

(新約聖書『マタイによる福音書』11章29節から)
 「無事を祈る」ということがあります。悪いことが起こらないようにという祈りです。ある意味では、このような祈りを神様はお聞き入れ下さいません。やっかいな事が起こるのは人生の常なのです。しかし、神様はそのようなやっかい事を通して、私たちに多くの恵みをお与えになることができます。無事を祈るよりも、私たちの身に起こるすべてのことを恵みに変えてくださるように祈りましょう。そうすれば、私たちはどんな時にもイエス様が共にいてくださることを知り、悲しみつつも慰められ、忍びつつも希望があり、悩みつつも平安を与えられことでしょう。

084

人が独りでいるのは良くない。

(旧約聖書『創世記』2章18節から)
 人は独りでいると外界のことを忘れ、内面に閉じこもり、一つのことをじっと思い巡らしてしまうことがあります。特に厄介な事があると物事を実際よりも悪い方へ考えたり、自分より不幸な者はいないと考えたり、自分なんぞ生きていても仕様がないのではないかと思えてきたり、たいていはろくでもないことばかりを思い巡らし、思い込み、思い詰めてしまうのです。あるいはまた罪深い妄想や奇妙な空想に取り憑かれて、やはり周囲の状況が見えまま愚かな罪を犯してしまうこともあります。孤独になって自分の殻に閉じこもらないように、神様と隣人に対して常に心の窓を開いている事が大切です。

085

夜は更け、日は近づいた。

(新約聖書『ローマの信徒への手紙』13章12節から)
 イラク戦争、北朝鮮問題、幼児虐待、医療事故、不景気、財政赤字、年金問題・・・毎日毎日同じようなニュースが伝えられています。明るいニュースなどほとんど何もなく、本当に暗い時代になりました。しかし、一年で日がもっとも短くなる冬至に、イエス様のご降誕を祝うのは決して偶然ではありません。イエス様は私たちの太陽です。しかも決して沈まない太陽です。どんな暗さの中にあっても、イエス様は私たちの上に輝いており、心を照らし、暖め、喜ばせ、感謝で満たすことがおできになります。

086

主において常に喜びなさい。

(新約聖書『フィリピの信徒への手紙』2章4節から)
 喜びとは信仰の結ぶ実です。信仰がなければ、たとえ神様に助けを祈り求めても不安と恐れが襲ってくるだけです。このような心には、きっと神様は居てもイエス様が居ないのです。思わず逃げ出したくなるような厳しい裁きの神様しか知らないのです。けれどもイエス様は、神様はあなたの罪を赦し、あなたを愛で覆ってくださる御方である事を教えてくださいました。イエス様を通して神様を信じましょう。そうすればあなたがどんなに神に愛されているか知るでしょう。そこに喜びの実を結ぶ信仰があります。

087

この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている。

(新約聖書『ルカによる福音書』15章2節から)
 罪人を軽蔑する人たちは、イエス様をも蔑んでこう言いました。「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」 彼らは、決して罪人たちを自分の兄弟姉妹だとは思っていませんでしたから、イエス様を受け入れることができなかったのです。しかし、もし私たちが、心弱く罪を犯す人たちを兄弟姉妹として愛しているならば、罪人の友となり給うイエス様をどんなに近しく、親しく思えることでしょうか。隣人をゆるし、兄弟姉妹として愛することと、イエス様を愛することは決して別々のことではないのです。

088

彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。

(新約聖書『マタイによる福音書』2章11節から)
 黄金については何の説明も必要ないでしょう。乳香はかんらん科の植物の樹脂で、王様だけが薫じることができる高貴な香でした。没薬もかんらん科の植物から取られるそうです。こちらは薬として重宝されました。「黄金」は富、「乳香」は名誉、没薬は「健康」、たしかにこれは誰もが求めている人間の宝物に違いありません。しかし、東の国の博士たちはそれをすべて幼子イエス様に捧げました。イエス様こそ人間のすべての宝を内に秘めた真の、そして唯一の宝であるからです。

089

信仰の道をわたしは選び取りました。

(旧約聖書『詩編』119編30節から)
 私たちの前には常に色々な選択肢があり、どれかを選ばなくてはなりません。選ばなければ、前に進めません。そして、一度選んだならば必ずその影響を受けます。このような一瞬一瞬の選択によって、私たちの人生が展開していくのです。しかし、あらゆる選択に先立つ根本的な選択があります。神に従う道と、神を無視する道です。これを間違えばすべてを間違うでしょう。しかし、それさえ間違わなければ、私たちの選択は、主の恵みによってすべてが善きに変えられると、私は信じています。

090

ことを隠すのは神の誉れ。ことを極めるのは王の誉れ。

(旧約聖書『箴言』25章2節から)
 アメリカの無人火星探査車「スピリット」が火星着陸に成功し、火星の赤茶けた地表の鮮明な写真を地球に送信してきました。人間の飽くことなき探求心の結果と言えましょう。人間が知ることを求めます。知ることによって自分が偉くなったような気になります。神のようになった気になる人もいます。しかし、神が隠す御方であり、人間がそれを追い求める者であるという立場は永久に逆転しません。神に近づくためには知識ではなく、隠されたことを信じる信仰が必要なのです。

091

いかに幸いなことでしょう。背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。

(旧約聖書『詩編』32編1節から)
 罪は私たちの魂にとって最大の重荷です。罪を背負った魂は、本当の喜びを感じることが出来ず、自由もありません。希望を持つことができず、いつも恐れや不安が心を暗くしています。自分を嫌いになり、そのくせ自分のことばかりを考え、神や隣人を愛することができません。しかし、イエス様は私たちのすべての罪を赦すために十字架にかかってくださいました。イエス様の十字架の愛を信じるとき、心に喜び、自由、希望、愛が回復します。神の恵みを知り、感謝と祈りが溢れてくるのです。

092

最初の確信を最後までしっかり持ち続けるなら、キリストに連なる者となる。

(新約聖書『ヘブライ人への手紙』3章14節から)
 誰もが「確信」をもってこの一年を開始したことでしょう。それから一ヶ月が経ちました。みなさんの「確信」はまだ心の中にしっかりと保たれているでしょうか。それともすでに肉の弱さを経験したり、思わぬ問題を抱えこんで立ち往生したりして、「確信」がぐらつき始めてしまっているのでしょうか。私たちにとって確信を持つということは救い主なるイエス様に望みを持つということです。自分の弱さや問題の大きさではなく、イエス様の力と救いの力にこそ私たちの目を注ぎ、いよいよ「確信」を深めてまいりましょう。

093

「できれば」というのか。

(新約聖書『マルコによる福音書』9章23節から)
 ある父親が「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助け下さい」と、イエス様に願いました。しかし、イエス様は「『できれば』というのか」とお答えになります。「神様の愛は無条件なのだから、『できれば』という言葉は不用だ」ということなのです。私たちがどんな人間であろうとも、何をしてきた人間であろうとも、多くの人に憎まれ蔑まされていようと、クリスチャンであろうとなかろうと、神様はあなたを愛することがおできになります。神様の愛を求めるのに「できれば」という必要はありません。ただ神様の愛をまっすぐに信じればよいのです。

094

狐たちをつかまえてください、ぶどう畑を荒らす小狐を。

(旧約聖書『雅歌』2章15節から)
 「ぶどう畑」は、私たちの主にあって実を結ぶ生活(信仰生活)であり、それを荒らす「狐」とは罪のことです。しかも「小狐」というのですから、小さな罪のことです。たとえば小さな嘘とか、陰口とか、不親切とか、卑猥な冗談とか、ポイ捨てとか、こういった些細な罪は小狐と一緒で主にある生活に何の影響も及ぼさないと高をくくっているかもしれません。しかし、そういう小狐を放っておくと、いつのまにか大切なぶどう園が荒れ果ててしまうのだ、という警告がこの御言葉にあるのです。

095

今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも神に取り入ろうとしているのでしょうか。

(新約聖書『ガラテヤの信徒への手紙』1章10節から)
 人に認めてもらおうとする生活は、常に他人の顔をうかがいながらのビクビクとした生活になるか、自分をよく見せようとして背伸びや無理をした生活になるに違いありません。そのような生活がどんなに窮屈で悩みと怖れに満ちたものになるか、私は自分の経験としてよく知っています。神様に認めてもうことを心の目標に定めれば、他人に理解されないこともあまり気になりません。悩みに襲われることもありますが、神様の愛のまなざしを確信することができますので、希望は揺らぎません。 

096

あなたの御言葉は真理です。

(新約聖書『ヨハネによる福音書』17章17節から)
 論語に「朝(あした)に道を聞けば、夕に死すとも可なり」とあります。もし、「御言葉は真理なり」という事が本当に分かるならば、私たちもきっと「夕に死すとも可なり」という心境になるに違いありません。「御言葉は真理なり」とは、それほど私たちの命に重大な意味をもつ真理なのです。この真理は、イエス様の口から発せられました。イエス様を信じるならば、この真理をも信じるべきです。そして、私たちもまたイエス様と共に「御言葉は真理なり」と告白する者になりたいと願います。

097

自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。

(新約聖書『マタイによる福音書』16章25節から)
  「イエスは、今やその天国を愛する人をたくさんもっておいでだが、その十字架を担う人はわずかしかもっておいででない。慰めを求めてくる人はたくさんもっておいでだが、苦難を願う人はわずかしかもっておいででない。食卓の友はいっそうたくさん見いだされるが、断食の友はわずかしか見出されない。誰でもイエスと共に喜ぶことを望むが、そのためになにかを忍耐しようとは望まない。パンを裂くまでイエスに従う人は多いが、苦難の杯を飲むまで従う人は少ない」
                      -『キリストにならいて』より-

098

わたしは信じる、「激しい苦しみに襲われている」と言うときも、不安がつのり、人は必ず欺く、と思うときも。

(旧約聖書『詩編』116章10節から)
 神様を信じたら苦しみがなくなるのでしょうか。残念ながら、聖書はそうは約束してくれません。それどころか、信仰者たちの苦しみを預言さえしているのです。では、聖書は何を私たちに約束しているのでしょうか。それは、「いついかなる日にも、あなたの傍らにイエス様が一緒にいてくださる」ということです。イエス様は、苦しいときの助け、悩みの時の救い、孤独の日の友となってくださるだけではなく、私たちのすべての罪を赦し、神様の大切な息子、娘として生かし、天の御国へと導いてくださるのです。

099

確かに未来はある。あなたの希望が断たれることはない。

(旧約聖書『箴言』23章18節から)
 ある本に「神はあなたを愛し、あなたに素晴らしい人生を与えようとなさっている」とありました。その通りです。しかし、素晴らしい人生とはどんな人生でしょうか? 仕事の成功、健康な体、幸せな結婚、平和な家庭、悠々自適の老後・・・もしもこのような人生を期待しているならば、あなたはきっと失望するでしょう。神はあなたの人生から健康、財産、愛する人を容赦なく奪われる事も十分にあり得るからです。それにも関わらず、神様はあなたの人生を素晴らしいものにしてくださる。それが神様のお約束なのです。

100

わが主よ、あなたはなぜ、この民に災いをくだされるのですか。わたしを遣わされたのは、一体なぜですか。

(旧約聖書『出エジプト記』5章22節から)
 モーセはまったく裏切られたという思いをもって、「主よ、なぜですか!」と神を問いつめたに違いありません。神様の言われる通りにしたのに、かえって事態が悪くなってしまったからです。わたしにも、モーセのような失望、疑い、混乱に陥ったことがあります。しかし、同時に神様のなさることは、すべてが終わってみなければ決して分からないという経験もしました。神様には神様の策があるのです。最後まで信じ続け、人知を越えた神の偉大な御業が成就するのを見る者になりましょう。

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