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今年のクリスマス、私たちが共に味わいたい御言葉は、『ヨハネの手紙1』4章の、特に9節に示されている御言葉です。
「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」アーメン
私が、特に心を込めて、皆さんにお伝えしたいのは、「その方によって」という、極めて重要なキーワードです。他の何者によってでもなく、ただ「その方によって」のみ、私たちが生きるようになるために、神様は独り子なるイエス・キリストを世に与えてくださった。それがクリスマスという出来事なのです。
神様が、イエス様を私たちに与えてくださったのは、私たちが金持ちになるためではありませんでした。有名になるためでもありませんでした。五体満足に生きるためでもありませんでした。家族の愛に満ち足りることでもありませんでした。何事もない平和な日々を生きるためでもありませんでした。何があろうとなかろうと、私たちがイエス様によって生きるようになるためだ、というのです。
イエス様は、私たちに何か他のものをもたらす神の恵みの手段ではないのです。イエス様そのものを、私たちが生きる手段とするように、イエス様ご自身を、私たちの救い主として、もっとも信頼すべき友として、また祝福として、私たちに与えてくださったのです。
自分の力で、人生を生きていくということは、本当に心許ないことなのです。あらゆる弱さ、障害物、危険、必要が、私たちを絶えず悩ませ、恐れさせ、不安や失望に陥れます。しかし、もしイエス様が、私たちの人生の中に生きる方となってくださり、私たちに代わってすべてのことをしてくださるとしたら、どうでありましょうか。私は、これを「選手交代」と呼んでいます。今までは、私の人生は私のものでした。私自身が頑張らねばならないことでした。しかし、もしイエス様が私たちの人生をご自分のものとしてくださり、私たちに代わってイエス様が中心になって生きる方となってくださるならば、私たちの重荷はどんなに軽くなることでありましょうか。
「その方によって、私たちが生きるようになる」とはそういうことなのです。イエス様によって生きるようになるならば、私たちは、人生のあらゆる弱さ、障害物、危険、必要にも関わらず、イエス様がしてくださったこと、してくださることによって救われ、喜び、感謝し、賛美をもって生きることができるでありましょう。まさに神様は、そのように私たちがイエス様によって生きるようになるために、イエス様を与えてくださったのです。
そして、「ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました」と告げられています。イエス・キリストこそが、私たちに示された神の愛なのです。イエス・キリストこそが、私たちに対する神の祝福なのです。人にはそれぞれ人生の祈りがあります。しかし、どんなことを祈るにしろ、神の祝福は、イエス・キリストによって、私たちに与えられることを忘れてはなりません。
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皆さん、神様が、このように愛をもってイエス様を与えてくださったのですから、私たちもまた、イエス様を愛して、私たちの生活の中にイエス様を招き入れようではありませんか。
イエス様に与えられた大切なお名前の一つに、インマヌエルという名前があります。インマヌエルとは、「神われらと共にいます」という意味です。私たちの生活が、人生が、「神われらと共にいます」と祝福のうちにおかれること、それがイエス様のお生まれくださった目的なのです。
そのためにも、私たちの生活全体が、また祈りのすべてが、イエス様の力と導きのもとに置かれるようにすることが、大切です。そうすれば、イエス様がわたしたちのためにすべてをしてくださるのです。
では、どのようにしたら、私たちの内にインマヌエルが実現するのでしょうか。今日、お読みした聖書には四つのことが示されています。便宜上、順序を入れ替えて申しますが、
「神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。」(13)
「わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」(12)
「イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。」(15)
「神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。」(16)
第一は、もし神、御霊を賜うならば、神われらと共に居ます。第二は、もし互いに相愛するならば、神われらと共に居ます。第三は、もしイエスを神の子と言い表すならば、神われらと共に居ます。第四は、もし神の愛に留まるならば、神われらと共にいます、と言われています。この四つの御言葉に重ねながら、クリスマスの出来事を改めて思い起こしてみたいと思います。 |
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福音書に記されたクリスマスの出来事というのは、イエス様を神様からの贈り物として受け取った人々の物語であるとも言えます。彼らがどのようにしてイエス様を神様の贈り物として受け取ったのか、そのことを丹念に調べながら読んでみますと、確かに今申しました四つの真理がここにもあると分かるのです。
最初は、おとめマリアの処女懐胎という物語です。御使いガブリエルが、ナザレに住むマリアという一処女のもとに現れ、「あなたは身ごもって男の子を産むでしょう」と告げました。それを聞いたマリアは、勇気を振り絞って反論します。「どうしてそんなことがありえましょうか。私はまだ男性を知りません」と。しかし、御使いは平然と答えます。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包むでしょう。生まれてくる子は、神の子なのです。神にはできないことは何もないのです」
処女懐胎というのは、人に拠らず、自然に拠らず、ただ神の聖霊によって、マリアが神の御子を宿したということであります。確かに、私たちの常識をうち破るような出来事であります。しかし、あり得ないことは、いつまで経ってもあり得ないままであるならば、いったいどこに私たちの救いがあるのでしょうか。人の理、自然の理では絶対にあり得ないことであっても、「いと高き方」つまり超越者である神様がお働きになるならば、どんなことでも現実に起こる。それが処女懐胎ということなのです。
実は、私たちが神様の贈り物であるイエス様を受け取り、私たちがその方によって生きるようになるということも、これと同じように聖霊による出来事だと言えます。自分の知恵や力で到達することではないのです。自分の知恵や力が必要ならば、いつか私たちは「どうして、そんなことがありましょうか。私にはこれが足りません。あれが足りません」と言わざるを得なくなるでしょう。しかし、「もし神、御霊を賜うならば、神われらに居ます」と、聖書は約束するのです。
できるかとか、できないとか、そんなことは考えずに、ただただ己を低くして、上なる力に包まれなさい。そして、ただ「わたしは、主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように」と祈りなさい。そうすれば、どんな絶望的な現実の中にいても、神なき望みなき地獄を生きていようとも、いと高き方の力があなたを包み、聖霊によって、イエス様があなたの人生の中に生きてくださるようになるでしょう、というのです。 |
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次にヨセフがいかにイエス様を神様の贈り物として受け取ったかについて、考えてみましょう。ヨセフはマリアに罪がないことを知りませんから、自分の子ではない子をマリアが身ごもったという現実の前に、どんなにか打ちのめされたことでありましょう。しかし、ヨセフは悩み抜いた末に、何も聞かず、何も言わずに、マリアとの婚約をこっそりと解消しようと決心したというのです。
これは、自分が傷つけられながらも、なおマリアのことを思っての結論でありまして、ヨセフという人は、本当に人並みはずれた思いやりと寛容の心の持ち主であったと思うのです。そのヨセフでさえ、これ以上マリアを愛することはできなかったのです。ヨセフが、神様の贈り物であるイエス様を自分の人生に迎え入れるためには、人間の愛の限界というものを超えて、マリアを受け入れなくてはならなかったのです。神の御心は、「もし互いに相愛するならば、神われらの内に居ます」なのです。
どうやって、ヨセフはその高いハードルを越えることができたのでしょうか。その夜、ヨセフの夢に天使が現れ、「マリアと結婚しなさい。マリアは聖霊によって身ごもったのだ。」と告げました。ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、マリアを妻として迎え入れたというのです。
私は、ここで「愛は神から出たものである」という御言葉を忘れてはならないと思います。ヨセフは自分の愛でマリアを愛したのではありません。主の言葉を信じることによって、神の愛を信じることによって、マリアを愛したのであります。
「もし互いに相愛するならば、神は我らの内にもいます」 私たちにとっても、これは高いハードルです。しかし、聖書において、互いに愛し合うということは、相手が愛してくれるから自分も愛するということとは違うのです。神が彼を愛したまうということを信じることによって、私も彼を愛するというのが、聖書における互いに愛し合うということなのです。
ですから、私たちは、自分の愛が裏切られ、傷つけられた時にも、なお愛を失ってはなりません。人の心ではなく、神様の御心を見上げて、神様の内から愛を汲み取って、どんな人も愛する者にならなければならないのです。なぜなら、神様はその人のことも愛して居られ、その人のためにイエス様を与えて居られるからです。 |
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さて、イエス様がベツレヘムの家畜小屋でお生まれになった夜、野原で羊の番をしていた羊飼いたちは、「救い主がお生まれになった」という、天使たちのお告げを受けました。
これを聞いて、彼らはすぐにベツレヘムに駆けつけ、天使たちが言ったように、飼い葉桶に寝かされている幼子を捜し当てたのです。羊飼いたちは、救い主を見つけた喜びに溢れ、自分たちが見たこと聞いたことを、町中の人たちに告げ知らせて回ったと言われています。
イエス様に出会った喜びを自分だけのものとしないで、多くの人々をこの素晴らしい喜びの中に巻き込もうとすること、それが証しであり、信仰告白であり、伝道でありましょう。私たちは自分のことについては、あまり誇ったおしゃべりをしない方がいいのです。しゃべればしゃべるほど恥をさらすということになります。
しかし、イエス様が神様の御子であるということについては、恥じてはなりません。どんな場所においても、どんな時であっても、どんな人に対しても、恥じることなく、大いに語るべきなのです。イエス様が栄光をお受けになれば、私たちもイエス様によって祝福されるのです。「もしイエスを神の子と言い表すならば、神われらに居ます」という真理がここにあります。 |
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最後に、東の国から来た博士たちのことを思い起こしてみましょう。彼らは異教徒の国にあって、占星術という偶像礼拝を起こっている人たちでありましたが、星の導きによって幼子イエス様のもとにたどり着き、礼拝を捧げました。そして、再び自分たちの国に帰っていたのですが、聖書には、彼らは「別の道を通って、自分たちの国に帰っていった」と言われています。
これは、彼らはまったく別の道を生きる人間として、自分たちの国に帰っていたということを象徴する言葉でもあると思います。たとえば、彼らが幼子に捧げた黄金、乳香、没薬というのは、彼らの占いに用いる道具であったとも言われるのです。大切な商売道具を捧げたということは、彼らが黄金や占いによってではなく、神様の贈り物であるイエス様によって生きる者となったということだと思うのです。
「もし神の愛に留まるならば、神われらの内に居ます」と、言われていますが、神の愛に留まるとは、神様の愛によって始まった新しい生活に留まり続け、もう元の道、元の生活には戻らないということなのです。それが、神様の贈り物であるイエス様を、私たちの人生の祝福として受け取り、堅く抱いて離さないということなのです。
どうか、このクリスマスの時期、みなさんの祈りの生活が祝福され、もう一度、イエス様において示された神様の愛のうちに、しっかりと留まり続ける思いを新たにすることができますようにと祈ります。そして、最後にもう一度9節の御言葉をお読みしましょう。
「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」アーメン
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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