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クリスマス、おめでとうございます。そして、この良き日に洗礼をお受けになった黒川昭彦さん、心からお祝い申し上げます。まず黒川さんのために、ひと言お勧めさせていただきたいと思います。
人生はしばしば「道」に喩えられますが、本当は、道すらない荒野の中をああでもない、こうでもないと、あてどなく彷徨っているというのが、多くの人の人生の実際の姿なのではないでしょうか。道がないから、道を誤るのです。道がないから、躓くのです。道がないから、途方にくれるのです。
白川静という漢字の成り立ちを解明した学者がおります。この人は甲骨文字まで遡って漢字の研究をし、これを何千年と信じられてきた漢字の常識を覆し、本当の漢字の成り立ちを解明した人として評価されている人です。最近、その人の弟子である山本史也という人が書かれた『神さまがくれた漢字たち』という本を読んだのですけれども、「道」という漢字の成り立ちについて、とっても興味深いことを教えているのです。
ご承知のように、「道」という字は、左に「しんにょう」があり、右に「首」があります。「しんにょう」というのは、人が歩いた足跡をかたどったものなのだそうですが、問題は右側の「首」という字であります。なぜ、「道」という漢字に「首」がついているか。実は、古代、人間は道なき荒れ野の大地の下には、人間に災いをなす魔物とか悪霊がうようよとお住み着いていると信じていました。そこで、道なきところを行くためには、まず魔よけとして人間の生首をひっさげて、お祓いの祈りを捧げながら歩いた。こうして、道なき荒野に、人間が通ることのできる安全な新しい道が切り開かれていったのだというのであります。
おどろおどろしい話でちょっとびっくりすることなのですが、考えてみますと「我は道なり」と言われたイエス様も、ご自分の命を十字架に捧げ、肉を裂き、血を注ぐことによって、私達の人生の荒れ野、魔物がうようよ住むような荒れ野のただ中に、新しい道を切り開いてくださったのでありました。
黒川さんは、今日、このイエス様が切り開いてくださった道の上に立ったのであります。これまでの荒れ野を彷徨うばかりの生き方におさらばをして、どうか主を信じる道、主に従う道を、確信をもって、右にも左もそれることなく、歩み続けていって欲しいと願います。
そして、この道は決して孤独の道ではありません。イエス様が共におられることはもちろんのこと、荒川教会という主の家族と共に手を取り合って共に歩む道であります。荒川教会の兄姉姉妹たちにもお願いします。どうぞ、新しい家族の一員となった黒川さんの霊的成長のために祈り、温かく支えていただきたいと思います。
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さて、今年のクリスマスのメッセージをご一緒に聞きましょう。今日は、マリアのお話であります。来春には140年間門外不出とされていたレオナルド・ダ・ヴィンチの『受胎告知』が来日するということで、今から楽しみにしている方もあるかと思うのですが、今日はその受胎告知の場面をお読みしました。
ガリラヤのナザレという村に住んでいた乙女マリアのもとに、天使ガブリエルが訪れて、こういうのであります。
「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」
いきなり天使が現れたと思ったら、「おめでとう、恵まれた方」と祝福されてしまった。マリアはいったい何のことだか訳がわからず、戸惑ってしまいます。すると、天使は続けてこのように語りました。
「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
「神からの恵み」、「イエス」、「偉大な人」、「いと高き方の子」、「ダビデの王座」、「永遠の支配」・・・マリアにはやはり何のことだか分からなかったに違いありません。しかし、一つだけ、マリアには聞き捨てならないことがありました。それは「あなたは身ごもって男の子を生む」という言葉です。まだ結婚をしていないマリアは、即座にその天使の言葉を打ち消します。
「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」
マリアは天使の運んできた神さまの恵みのお知らせを拒絶したのです。それは、マリアにもたらされた神の恵みが、日頃マリアが望んでいるようなものではなく、また常識的にありえないことであったからです。それはまったく理解しがたいことであり、さらに、ヨセフというちゃんとした許嫁がいるマリアにとっては、はたはた迷惑な話でもあったのです
つまり、マリアに与えられた神の恵みというのは、素直に喜べるような恵みではなかったのです。いったいぜんたい、これがどうして神の恵みなのかと耳を疑ってしまうような恵み、とても恵みとは思えないような恵みであった。「マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。」と言われているのは、そういうことであります。そして、逆に「そんなことがあるはずがない。あってはならないことだ」と、神の恵みを積極的に拒絶する態度に出てしまうのです。
みなさん、私達もこのような、とても恵みとは思えないような神の恵みを経験することがあるのではないでしょうか。普通、私達はそれを恵みとは呼びません。苦しみ、悩み、心配、悲しみ、不幸、困惑、迷惑災難という、正反対の言葉で呼ぶのです。しかし、それが神の恵みであると言われたらどうでありましょうか。私達もやはりマリアのように戸惑い、考え込み、「どうしてそんなことがありえましょうか」と異議を唱えるのではないでしょうか。
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どうして? なぜ? と問うマリアに、天使は答えました。
「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。」
「聖霊」は神さまご自身の御霊ということです。「いと高き方」も神さまご自身を表しています。ですから、天使はこう言ったことになります。「これは神ご自身が為し給うことなのだ」と。
しかし、マリアが戸惑ったのは、まさにその点にあります。神様は、自分が願いもしないこと、望みもしないことを、自分にしようとしておられる。しかも、それを神の恵みだと言ってくる。けれども、それはマリアの人生を壊しかねないことなのです。ヨセフという立派な婚約者がいるのに、身重になってしまったら、婚約解消ぐらいでは済みません。ずっと日陰の生活を送らなければならなくなるのが目に見えているのです。
しかし天使は、これがクリスマスだと、マリアに言うのであります。
「だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」
クリスマスとは、神様が人間に過ぎない者の内に宿られるということです。これはまったく人知を超えたことであるに違いありません。人間が考えることも、望み得ることでもないのです。初めから終わりまで神様だけがなし得ることなのです。しかし、神様はそのことを望み、そのことを成し遂げてくださる。預言者イザヤの言葉で言えば、「万軍の主の熱意がこれを成し遂げる」のです。
「なぜ」とか、「どうして」と言っても仕方がないのです。そこに人間の業が介入する余地はありません。理不尽かもしれません。しかし、「万軍の主の熱意がこれを成し遂げる」のです。そこに、あなたに対する神の恵みがあるのだと、天使は言うのです。だとしたら、人間は沈黙するしかありません。
なぜ、神は私の人生にこのようなことをなさるのか。どうして、神は私のささやかな幸せを壊されるのか。そのように問うことをやめ、これもあなたを愛し、あなたの救い、あなたを天国の民としとする神様の熱心がなさることなのだ、ということを信じるしかないのです。
● この身になりますように
マリアは神様に問うことを止め、ガブリエルの言葉にこのように答えました。
「わたしは主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように」
みなさん、クリスマスの喜びは、この信仰なくして受け取ることはできません。なぜなら、クリスマスは、私達が作り出す喜びではなく、神様がわたしたちのうちに作り出して下さる喜びだからです。
全身マヒの障害を負いながら、キリストを信じ、キリストを讃える詩を書き続けた水野源三さんが、このようなクリスマスの詩を書いています。
一度も高らかに
クリスマスを喜ぶ賛美歌を歌ったことがない
一度も声を出して
クリスマスを祝うあいさつをしたことがない
一度もカードに
メリークリスマスと書いたことがない
だけどだけど
雪と風がたたく部屋で
心の中で歌い
自分自身にあいさつをし
まぶたのうらに書き
救いの御子の降誕を
御神に感謝し喜び祝う
クリスマスの喜びは、みんな讃美歌を歌ったり、クリスマスツリーを飾ったり、クリスマス・カードを送ったり、家族や友人たちとパーティを開いたり、そういうことにもありましょう。しかし、それができないクリスマスも、私たちの人生にはありましょう。けれども、それができないから、クリスマスを喜べない、祝えないということではないのです。たとえそれがなくても、クリスマスの喜びを喜ぶことができるのです。否、むしろそのようなことができないからこそ、つまり自分自身では何の喜びも作り出せないからこそ、ただただ神様がイエス様を私達に与えてくださったというその一事の中に、本当のクリスマスの喜びがあることを見いだし、それを我が身に与えてくださった万軍の主の熱心を深く喜ぶことができるのではないでしょうか。
マリアはこの後、エリサベトのもとに行きます。エリサベトはこのような言葉で、マリアを祝福しました。
「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
私達も、マリアのごとく、「わたしは主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように」との信仰をもって、神様の祝福を受け取る者になりたいと願います。
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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