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ペルシア帝国は、東はインダス川から西はナイル川に達する大帝国でした。その威容を誇るためにクセルクセス王は、なんと180日にも及ぶ酒宴を催したのでした。
しかし、実を言うとこれは単なる宴会ではなく軍事会議であったようです。クセルクセス王は、父ダリウス王の果たせなかった夢、ギリシャ遠征をもくろんでいました。そのために「大臣、家臣のことごとく、ペルシアとメディアの軍人、貴族、諸州の高官」を招集したのです。そうであれば日本の国会だって150日の会期があるわけですから、180日の軍事会議というのはそれほど異常だとは思わないのです。
面白いのは、それがどうして「酒宴」と言われているのかということです。実は、ペルシアでは大事なことは酒の席で話し合うという習慣があったそうなのです。ヘロドトスという歴史家が言っていることなのですが、酒の席でみんなが賛成したことを、翌日しらふの時にもう一度提案します。それでも賛成であれば採用し、そうでなければ廃案にするという仕組みです。
なんとなく日本と似ていますね。日本では、形式ばかりの会議はしらふで行いますが、本当に大事なことは政治でも、商談でも、みんな酒を酌み交わしながら料亭で行われているようですから・・・。
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(注) クセルクセス王がもくろんでいたギリシャ遠征とは、世に言うペルシア戦争(BC492-479年)のことです。ペルシア戦争はペルシア帝国の最盛期を築いたダリウス王によって始められました。しかし、彼は二度に渡るギリシャ遠征に失敗しまし、その遺志をついでダリウスの子クセルクセス王は第三回ギリシャ遠征(BC480)をします。そして、それもサラミスの海戦においてアテネ軍に敗れ、ペルシア軍は大打撃を受けてしまいます。この敗北によって、ペルシアのギリシャ遠征の夢はついに挫折してしまったのでした。
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さて、180日の軍事会議の後、7日間の宴会が王宮の庭園で開かれました。これは本当の宴会です。慰労会のようなものでしょう。ですから、そこには軍人、貴族、高官だけではなく、身分の上下を問わず多くの人たちが招かれ、無礼講であったと書かれています。他に、王妃ワシュティの催す宴会があり、女性たちはやはりそちらで飲めや歌えやと楽しく盛り上がっていたようです。
宴会の最終日のこと、すっかり機嫌をよくした王様は、自慢の王妃ワシュティをみんなに見せびらかしたいと思います。宴会の最後の余興にと思ったのでしょう。ところが、王妃はたいへん気位の高い人で、宴会の余興に自分が見せ物にされるということを断固として拒否したのでした。
王妃に拒否され、満座の中で恥をかかされたクセルクセス王はかんかんになって怒りました。そして王国の最高の地位にある七人の大臣たちを集めて、この問題を審議したというのです。
「王妃ワシュティは、わたしが宦官によって伝えた命令に従わなかった。この場合、国の定めによれば王妃をどのように扱うべきか。」(15節)
王様がこのように言うと、七人の大臣の一人メムカンが発言しました。「王妃ワシュティのなさったことが国中に知れ渡ると、王様の威信を損なうばかりか、国中の婦人たちが夫を敬わないというに悪い影響を及ぼすでしょう。ですから、ここはきっちりと王様の力を見せつけ、国民に示しをつけるべきです。」
結局、この意見が王様や他の大臣たちの賛同を得るところとなり、王妃ワシュティは退位させられることになったのでした。 |
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さて、みなさんはどう思われるでしょうか。王妃ワシュティが、「私は見せ物じゃないわよ」と王様の命令に背いた気持ちはよく分かります。今の時代であったら、これは政治問題というより人権問題でしょう。そして、彼女を応援する大勢の女性たち、あるいは男性も現れたに違いと思うのです。しかし、これは単にその時代の人権意識の低さだけを物語る話なのでしょうか。
今年の6月9日、結婚10周年を迎えた皇太子ご夫妻の映像がテレビに流れていました。二人揃って会見される映像や、長女・愛子さんを見守る皇太子や雅子さんの映像は、まるで絵に描いたような理想的な夫婦、理想的な家庭そのものでした。もちろん、それが本当の夫婦の姿であるかどうか疑わしく思った国民も多いと思います。
私もその一人です。しかし、それにも関わらず「これでいいんだなあ」と思うのです。ああいう立場にいる人たちは本当の姿というよりも、国民がそれを見て幸せになるような姿を見せ続けるということが大切な仕事なのです。そのことが国民の道徳心を高めたり、勇気や希望につながったりするからです。
クセルクセス王と王妃の置かれている立場も同じです。彼らは立場上、国民の模範となる夫婦を演じなければならないのです。ましてこれから国を挙げて戦争をしようという時です。戦争の是非はともかくとして、国民は王様の命令一つで命を捨てる覚悟をしなければならない時なのです。そんな時に、王妃ワシュティが自分のプライドを守るということだけのために王様の命令を拒んでしまったのでした。
王様も大臣たちも、このことが国民の志気にどういう影響を与えるか、それを考えずにはいらないのは当然のことなのでした。 |
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そう考えますと、皇室というのはただ華やかなだけではなく、ずいぶん窮屈な生き方もしなくてはいけないわけで、「大変だなあ」と思うのです。その点、私たち一般人はずっと気が楽です。言いたいことを言って夫婦げんかや親子げんかができるということも、幸せの一つだと考えていいのではないでしょうか。
しかし、このような私たちにも考えなければならないことがあると思うのです。つまり、誰の前でも本音で生きていることが必ずしも良いことだとは言えないことです。
たとえば子供の前で夫婦げんかばかりしていたら、子供の心を悲しませ、暗くするに決まっています。子供の気持ちを思えば、子供の前で互いに罵り合うようなことは避けなければなりませんし、たとえケンカの最中でも子供の前では仲の良いお父さんとお母さんを演じる必要もあると思うのです。
あるいは仕事がうまくいかない時に、上に立つ人がメソメソしていたら、従う人たちはみんな不安に陥ってしまうというとあります。人を導く人の責任は、たとえ自分の心の不安を隠してでも、みんなを励まし、元気づけるということにあるのではないでしょうか。
誰にだって虫の居所が悪いとき、気が重いとき、恐れや不安に苛まされときがあります。そういうときににこやかな挨拶をしたり、ほほえみかけたりするということはとても難しいことです。しかし、自分の暗い顔や態度が周囲の人々の気持ちまで暗くしてしまうことがあるのだということを忘れてはいけないと思うのです。
いつも明るく笑っている人は何の苦労も知らない人とは限りません。先日、ある父娘がハイキングの途中で遭難し数日ぶりに救出されたというニュースがありました。お父さんは怖がっている娘は励ますために、敢えて日常的なお話しをしたり、歌をうったり、ゲームをしたという話が感動的でした。このように人を励ますために笑顔をつくり、明るく振る舞っている人もいるのです。
実際、私たちも人の笑顔に励まされたことがあるのではないでしょうか。逆境にある時に、人に笑顔で挨拶したり、ほほえみかけたりするということは、決して自分を偽ることにはなりません。それは人への気遣いであり、愛なのです。
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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