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クセルクセス王は、王妃ワシュティの美しさを自慢しようと、酒宴の席に王妃を呼び寄せようとしました。しかし、王妃は「わたしは見せ物じゃないわよ」とそれを拒否してしまいます。満座の中でとんだ恥をかかされた王様はカンカンになって怒り、王妃を離縁してしまったのでした。ここまでが前回のお話しです。
さて、時が経つと、王様は自分の性急な行動を悔やむようになりました。
「その後、怒りの治まったクセルクセス王は、ワシュティとそのふるまい、彼女に下した決定を口にするようになった。」(1)
感情というのは、興奮状態にある時には揺るぎない絶対的な気持ちであるように思われます。しかし、そんな激しい感情も、時が経てば必ず冷めていくものです。一時の感情を自分の絶対的な意志のように考え、感情のままに行動すると、クセルクセス王のように後で自分の性急さを反省することになります。
この点について聖書はどんな風に教えているでしょうか。
「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。」(エフェソの信徒への手紙
4章26節)
「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。」(テサロニケの信徒へ手紙1 4章13節)
怒りや悲しみについて語られている聖書の一部を拾ってみました。聖書は怒りや悲しみの感情の持つことを禁じていません。怒ったり、泣いたり、笑ったりすることによって、私たちは生きていることを実感するのです。感情豊かな人間は生き生きしています。けれども、その感情を絶対化して、怒り続ける人間、悲しみ続ける人間になってはいけないと、聖書は教えているのです。
怒りや悲しみというのは、特に絶対化しやすい感情だと言えましょう。だからこそ、大切な判断を誤らせたり、自分の人生を狂わせたりしてしまうことがある感情です。そうならないようにするためには、人を赦す愛の大切さ、どんな悲しみも癒す慰め、どんな絶望も越えて進む希望を思い起こさせてくれる御言葉をいつも読んでいることが大切です。それによって神の御心を思い起こし、自分の道を選んでいく必要があるのです。たとえ感情に反するものであっても、そのような御言葉によって生き方を決めていくならば、後で必ず神様の喜びと讃美に満ちた豊かな感情を持つことができるでしょう。
感情は私たちの生き方を決めるものではなく、私たちの生き方の結果なのです。 |
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さて、怒りにまかせて王妃ワシュティを離縁したクセルクセス王は、だんだんその寂しさにたえられなくなっていきました。それを見かねた侍従たちは、王様にこのような提案をします。
「王のために美しいおとめを探させてはいかがでしょうか。 全国各州に特使を送り、美しいおとめを一人残らず要塞の町スサの後宮に集め、後宮の監督、宦官ヘガイに託し、容姿を美しくさせるのです。御目にかなう娘がいれば、ワシュティに代わる王妃になさってはいかがでしょうか。」(2-3節)
要は、国中から美しい娘たちを集めて美人コンテストをし、そこから新しい王妃様を選びましょうということです。王様もそれは面白い趣向だということで、さっそく国中におふれが出し、美しい乙女たちが後宮に集めたのでした。
集まってきた娘たちは美人揃いでありましたが、さらになお宦官ヘガイの指導のもとで1年間の美容期間を過ごし、より美しくされたとも言われています。
「十二か月の美容の期間が終わると、娘たちは順番にクセルクセス王のもとに召されることになった。娘たちには六か月間ミルラ香油で、次の六か月間ほかの香料や化粧品で容姿を美しくすることが定められていた。」(12節)
今日、美人コンテストなんて女性の人権を無視した男たちの道楽であるという認識が広まって、数が少なくなりました。確かに男の視点で女性の顔の善し悪しを云々するというのは、まったくナンセンスな話だと、私も思います。 |
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「泥かぶら」(真山美保)というお話しがあります。ある村に「泥かぶら」と呼ばれる一人の顔の醜い少女がいました。醜いが故に村の人々が嘲られ、子どもたちからも石を投げられたり、つばをかけられたり、いじめられたりしました。それを悔しがって怒る少女の心はますます荒み、顔は醜くなる一方なのでした。
ところがある日のこと、村に一人の老人が通りかかり、竹の棒を振り回して怒り狂う泥かぶらに向かって、次の三つのことを守れば村一番の美人になると教え、自分はまた旅を続けていくのでした。
その三つのこととは、「自分の顔を恥じないこと、いつもにっこりと笑うこと、人の身になって思うこと」でした。少女は美しくなりたい一心でその日から血のにじむような努力をはじめます。
決心は何度も中断され、あきらめようとしますが、また気を取り直してはじめる泥かぶらの顔からいつしか憎しみが去り、その心はおだやかになっていくのです。そして、いつしか明るく気持ちのよい少女は村の人気者になり、子守にお使いにと重宝がられる者になっていくのでした。
そんなある日のこと、同年輩の娘が人買いに買われていくのを知った泥かぶらは、喜んで身代わりになり連れられてゆきます。泥かぶらは、その人買いにも、道々楽しげに村の様子を話し、自分が可愛がった村の赤ん坊たちのことを語ります。その少女の心に触れて、凶暴な人買いの心も人間味を取り戻し、前非を悔い、置き手紙を残して立ち去っていったのでした。
その手紙には、「ありがとう、仏のように美しい子よ」と書かれてありました。そして、その時、泥かぶらはかつて旅の老人が自分に約束した言葉、「自分の顔を恥じないこと、いつもにっこりと笑うこと、人の身になって思うこと」を守ればきっと村一番の美人になれるという言葉を理解したというのです。
「泥かぶら」の話から思うのは、人の顔の美しさというのは決して目鼻立ちの整ったことを言うのではないということです。そういう美しさというのは、いやらしい目で女性を見る男性だけが喜ぶ美しさです。しかし、それとは別に誰もが美しいと感じ、愛する顔があります。そういう顔というのは、生まれつきのものではなく、その人の生き方が造るのです。
「男の顔は履歴書で、女の顔は請求書だ」という言葉があるそうです。男の顔が履歴書というのは良いとして、なぜ女の顔は請求書だと言われるのか。女性は、自分の顔を美しく見せるために、高価な化粧品を使ったり、エステに通ったり、多くのお金を使っているという皮肉です。西太后は、自分の顔にしわができるのを嫌って、いつも母乳のである女性をそばにおき、毎朝を母乳を飲んでいたという気味の悪い話もあります。
美しい顔というのはそうやってつくるのではありません。本当に美しい顔というのは男女を問わず、美しい心の現れです。そういう美しい顔というのは、素顔の美しさでありますから、高価な化粧品を使わなくても、エステティックなどの美容にお金を費やさなくても、美しいのです。たとえ年をとってもしわくちゃになっても美しいのです。
逆に、今は、電車の中でお化粧をしたり、道ばたにべたりと座ったり、言葉遣いが汚かったり、あまりにも人目を気にしない人が多くなりました。自分しか見えていないのです。こういう人は、どんなにブランド品で装っても、お化粧をしても、美しい顔にはなれないのではありませんでしょうか。 |
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さて、後宮に集められた美しい娘たちの中にエステルもいました。
「エステルも王宮に連れて来られ、後宮の監督ヘガイに託された。彼はエステルに好意を抱き、目をかけた。早速化粧品と食べ物を与え、王宮からえり抜きの女官七人を彼女にあてがい、彼女を女官たちと共に後宮で特別扱いした。」(8-9節)
エステルが美しい女性であったことは間違いないでしょう。しかし、多くの美しい女性たちの中でエステルが特別扱いを受けたのは、その容姿が抜きん出ていたせいではありません。エステルが好意を受け、目をかけられ、特別扱いされたのは、彼女が人々から愛される心の美しさを兼ね備えていたからなのです。
そのことについては次回にお話しをしましょう。 |
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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