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王様に継ぐナンバー・ツーの地位を手に入れたハマンは、門衛のモルデカイが癪にさわってなりませんでした。ハマンが登城するとなると門衛たちは一斉にひざまずき、特別な敬礼をもって恭しく迎え入れてくれるのが常でしたが、ただひとりモルデカイという男だけは、決してハマンを他の大臣と区別せず、通常の敬礼をもって迎えるだけだったからです。ハマンにはそれが我慢ならなかったのです。誰でも、自分には必要以上の敬意を払って当然であると考えていたからです。
間違ってはならないのは、モルデカイはハマンに無礼を働いたというわけではないということです。無礼を働いていたならば、罪はモルデカイにありましょう。しかし、彼は真面目に仕事をしていたし、誰に対しても必要十分な敬意を払っていました。だから、ハマンはモルデカイの態度を苦々しく思っても、決してそれ以上のことを要求することはできなかったのでした。
ところがある日のこと、ハマンの腹心の部下が「あいつはユダヤ人です」と報告をしてきたのでした。モルデカイがユダヤ人であると聞くや、ハマンは逆上しました。日頃からユダヤ人に対しては「強情で、生意気で、薄気味悪いヤツだ」という偏見をもっていたからです。「要するに、あいつは典型的なユダヤ人なのだ。問題は彼一人ではない。ユダヤ人を絶滅させなければならない」と考えたハマンは、早速、王様のところに行き、「お国のため、王様のためです」とうまいことを言ってユダヤ人虐殺の全権を受けたのでした。
意外と迷信深かったハマンはプルというくじを使って、ユダヤ人虐殺の日を11ヶ月後のアダルの月の13日に定め、広大なペルシア全土に王様の名でお触れを出しました。その内容は、「その日になったらユダヤ人は老若男女を問わず滅ぼされ、殺され、絶滅させられ、財産は没収される」というものでした。 |
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突如舞い込んだ凶報に、ペルシア全土のユダヤ人は震え上がりました。そのユダヤ人の受けた衝撃の強さ、嘆きの深さ、恐れの大きさは申し上げるまでもないでしょう
「勅書が届いた所では、どの州でもユダヤ人の間に大きな嘆きが起こった。多くの者が粗布をまとい、灰の中に座って断食し、涙を流し、悲嘆にくれた。」(3節)
では、モルデカイはどうしたのでしょうか。
「モルデカイは事の一部始終を知ると、衣服を裂き、粗布をまとって灰をかぶり、都の中に出て行き、苦悩に満ちた叫び声をあげた。」(1-2節)
「苦悩に満ちた叫び声をあげた」とあります。モルデカイも他のユダヤ人らと同様大きな衝撃を受けたのでした。これは当然のことです。「信仰者なら、どんな時にも苦悩に満ちた叫びをあげてはいけない」という法はありません。しかし、意外と「悲しんだり、悩んだりするのは、自分に信仰がないからではないか」と悩む信者の方は多いのです。そんなことはありません。イエス様さえゲッセマネの園では悲しみと苦悩に満ちて悩まれたではありませんか。
聖書の翻訳に力を尽くした塚本虎二先生はこんな言葉を残しています。
「悲しかったら泣き給え。
苦しかったら遠慮なくうめきたまえ。
その方がよっぽどクリスチャンらしい。
神様にしてもだが、せっかく折檻しているのに
感謝ばかりされた日には、拍子抜けするだろうじゃないか」
ユーモアに満ちた言葉ですが、確かに悲しいときには心から泣き、苦しい時には真剣に悩むことが神さまの御心であり、それができるのが信仰者だと言っていいのではないかとさえ思います。
ある牧師さんが、毎日酒を飲み、浪費をし、遊び回っている人を見て、「そんな生活をしていて本当に幸せですか」と問いかけたそうです。「うるさい、くそ坊主!」という言葉が返ってくるかと思いきや、意外にも真面目な顔をして「幸せなら、こんな生活をしているわけがないではありませんか」という答えが返ってきました。つまり、その人は人生の問題を真剣に悩む代わりに、羽目を外して遊び回っていたのです。このような人にとって必要なことは人生の問題をもっと真剣に悩むことなのです。
人生にはかならず答えがあります。悲しみには慰めがあります。しかし、自分にとって本当の問題は何かということを知らなければ、その答えも慰めも見いだすことはできません。バプテスマのヨハネが燃える火のような激しい言葉で人々を叱責し、地獄の恐怖を煽り立てたのも、人々が自分の罪を心から悲しみ、嘆くことによって、イエス様をお迎えする心の準備ができると考えたからなのです。
悲しんだり、悩んだりすることは決して不信仰ではありません。しかし、やはり信仰者らしい悲しみ方、悩み方というものがあるのも事実です。それはどんなに深い悲しみや嘆きのうちにあっても、神さまのうちには必ず慰めがあり、解決があるという希望を捨てないということです。 |
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私は「モルデカイは事の一部始終を知ると」という言葉に注目をしたいのです。これは、単にお触れ書に書かれていたことだけではなく、その裏にあるハマンの企みということまでも情報を得たということではないでしょうか。モルデカイは、お触れ書きを読んで大きな衝撃を受けたでしょうが、その一方で努めて冷静に行動しようとし、事の真相を知るために情報を集める努力するのです。そして、この迫害は王様の名前によって出されているけれども、実はハマンが主導権をもってやっていることであるということを突き止めたのです。「事の一部始終を知る」というのは、そういうことではないかと思うのです。
問題を解決するための正しい行動をとるためには、正しい認識が必要です。心配事や恐れに囚われていると、つい思いこみが激しくなってしまうことがあります。「もしかしたら、あの人は私のことを嫌いなんじゃないか」、「嫌がらせをしているのではないか」と疑心暗鬼になったり、何でもネガティブに考えるようになったりしてしまいます。悪いことに、一回そういう風に思い出すと、すべてがそれを証拠づけるように見えてしまったりもします。けれども、それは最初の思いこみが間違っているかもしれないのです。
そういう時は、ともかく慌てて思いこまないようにするということが大事だと思います。人のうわさを鵜呑みにしたり、実際に自分が見たり、聞いたことでも、軽率に判断しないことです。まず祈ることなのです。自分は知らなくても神様はすべてを知っていてくださるのですから、神様に祈れば、たいてい良い知恵へと導かれます。そして、自分が何をすべきかを知ることができるのです。
『コヘレトの言葉』はこう語ります。
「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々がこないうちに」(12章1節)
人生の問題を知るためには、造り主である神様を知らなくてはいけません。それは年をとってからでは遅いとはいいませんが、若いうちにきちんと造り主を覚えているならば、その後に必ず訪れる苦しみの日々にどのように祈れば良いのか、どのように生きれば良いのか知ることができるようになるということなのです。先ほどの例で言うならば、悩むべき時に悩まないで遊び回ってしまうというのは、造り主を知らないために自分の問題を正しく認識できていないからです。 |
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希望は、神さまが生きて働いていらっしゃるという信仰をもって、正しい情報をつかみ、冷静に判断するところから湧いてくるのです。
モルデカイは、ユダヤ人迫害がハマンの策略であることを知って望みが湧いてきました。ハマンの正体を暴き、王様に直訴をすれば事態が変わりうる可能性がでてきたからです。しかも、王様の寵愛を受けているエステルがいるではありませんか。彼女なら王様に直訴して、王様の心を動かし、ユダヤ人を救うことができる。いや、この時のために神さまが予めエステルを王妃にしてくださったに違いないと、モルデカイは確信したのです。
問題は、エステルにどうやってそれを伝えるかということです。モルデカイは衣服を裂き、粗布をまとい、灰をかぶり、大声で嘆き、お城の門の前に来ました。これが単なるパフォーマンスというわけではありませんが、このような身なりでお城に近づくことは相当にひと目をひきます。モルデカイにはそういう計算もあったのでした。 |
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聖書 新共同訳: |
(c)共同訳聖書実行委員会
Executive Committee of The Common Bible
Translation
(c)日本聖書協会
Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
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